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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第84話 身勝手(その13)】 

 日下(くさか)の心配をよそに、兵庫は三人の前に戻ってきた。そして、
「それでは山中さんの所に行きますよ」と云い、一人養育所の外に出て行こうとした。
兵庫を斬りにやって来た三人は、兵庫を追うしかなかった。
 養育所を出た兵庫は歩きながら、後ろの三人に話しかけた。
「宜しかったら教えて欲しいのですが、藩内では死んだ栄之丞殿、怪我をした吉五郎殿と梶殿のことはどのように報告されているのですか。私の名は出ていないと思うのですが・・」
「・・・・」
「真実を知っている皆さんが、真実に対する裁きを自分たちの手で行おうとしているのでしょうが、私を斬ることが身勝手なことはお判りでしょう。意地と云いましたからね。しかし、皆さんは裁く立場ではなく、裁かれる立場であることを考えたことはないのですか」
「・・・」
「私は真実から逃げません。皆さんも逃げずに死んでいった者へ実のある行動をしたら如何ですか」
「実のある行動とは・・」
「腹を斬ることは逃げるに等しいことですから、今後の生き方で償うのです」
「わしらは侍だ。腹を斬れなくては侍とは言えなくなる」と山田が反論してきた。
「腹を斬ることで死んでいった栄之丞殿のためになりますか。腹を斬るのは自分のためではありませんか。腹を斬らずに侍となった方が水戸藩に居ましたよ」
「誰だ」
「話す前に伺いますが、向島の円通寺に石だけを置いた十一基の墓のいきさつを知っていますか」
「噂程度です」と日下が応えた。
「私からは詳しいことは話せませんが、善を成そうとし、その目的のために悪事を働いた方々と家族の墓です。悪事が露見しそうになり、額賀は一旦腹を斬ろうとしたのです。しかし腹を斬らずに仲間を斬り、己は捕まり、罪の全責任を取り家族とともに斬首されたのです。悪事の片棒を担いだ方々は額賀に斬られることで、家名を守ることができたようです。罪人としてしか藩内では見てもらえない額賀ですが、腹を斬らずに生き恥をさらすことで他家を救ったのです」
「どうしてその様なことを知っているのだ」
「私はうだつの上がらない剣術家ですが、私の腕を買ってくれる方々いて、悪事を働く額賀を二度と悪事が働けないようにしてくれと頼まれたのです。それで、これから行く山中碁四郎さんと二人で退治に行ったのです。細かい話は割愛しますが私らは額賀らを屈服させました。額賀が腹を斬ると云ったので、それを信じ額賀らの隠れ家を出たのです。ところが額賀は腹を斬るより人のために働き、斬首されたのです。後に、額賀が成そうとしていた善行が何かを円通寺の和尚から聞きました。しがない剣術家が養育所を始めるきっかけを作ってくれたのが額賀殿だったのです。ということで私は今、死ぬわけにはいかないのです。ご理解ください」
「・・・・」
 沈黙が続き、また兵庫が襲われることもなく、浅草平右衛門町の船宿・浮橋に四人は入った。
「鐘巻様、お上がりください」と帳場で残り仕事をしていた番頭の幸吉が立ち上がった。
「お願いが在ってきました。碁四郎さんを呼んでください」
 呼ぶまでもなく、兵庫の声を聞きつけた碁四郎が出てきた。
「兵さん。・・・」と云い、兵庫の刀を見。更に後ろに居る三人を見た。
「碁四郎さん心配するな。こっちの仕事はほぼ終わりました」
「いつもと違う軽そうな刀を差しているので」
「志津に刀と言ったら。これをよこしたのです」
「兵さんは短気だから、刀を抜かないように奥さんが気を使ってくれたのですよ」
「その刀抜けないのですか」と日下が不思議そうに聞いてきた。
「兵さんの刀は竹光ですよ」
「本当ですか」
「斬りかかられないように話をしてきたのですが、途中で話のネタが無くなり困りました」
と、鯉口を斬り少し抜いて見せた。
「鐘巻さんは善人ですね」
「確かに兵さんは善人ですが、斬りかかれば恐らくみなさん死んでいましたよ。兵さんは小太刀の名手でもあり、差している長脇差は本身ですからね。それより何をすればよいのですか」
「こちらは水戸藩の方々です。今日はここにお泊りです。頼みは、黒船を見に行ったでしょう。その時の話と異人と交換したものを見せてあげてください」
「いいですよ。皆さん上がってください」

 少々変わった侍二人と、侍っ気丸出しの三人が向かい合い、話が始まった。
そして、笑いを挟みながら夜が更けていった。
話は黒船から兵庫と碁四郎の滑稽な武勇談へと、更に時が流れ、碁四郎の妻・静が夜食の蕎麦を差し入れた。
そして争いに終止符を打つ子(ね)の刻を告げる鐘の音が聞こえてきた。
この時が来るのを待って居た兵庫と日下、山田、佐野が顔を見合わせ、安堵の表情を見せた。
身勝手な争いが血を見ずに終わった。

第八十四話 身勝手 完

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Posted on 2016/04/22 Fri. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第84話 身勝手(その12)】 

 兵庫を先頭に少し離れて三人が養育所・十軒店の道場口近くまでやって来た。
その様子を見守る養育所の男たちに兵庫が、
「これから。こちらの日下殿、山田殿、佐野殿と私が自由な得物を使い、子(ね)の刻まで道場で勝負します。皆は一切の手出し、口出しはしないでください。いいですね」
皆が「分かりましたと」頭を下げ、道場口から身を引いていった。

 兵庫が三人を道場に連れて行くと、道場がかなり暗い。
日中の日差しを避けるために青空道場によしずの屋根を設けたため、だいぶ丸くなった月の光を遮ってしまっていたのだ。
「常吉さん、日除けを外すのを手伝ってください」
「分かりました。人足を集めます」
こして、道場の男たちが集められ、真剣勝負の舞台を作るために道場の日除けが外されていった。

その間、戦う者たちは待たされた。
暗かった道場に月明かりが広がるのを見ている、三人から殺気が薄れていった。
意地などと云った得体のしれないものに憑(と)りつかれていた三人の熱を夜風が冷ました。
志津の弾く箏の音がさらに心を鎮めていった。
五つの鐘が鳴った。
「御三方、月を見、琴の音を聞き風に当たっていたら、私は争う気がなくなってしまいました。出来れば今日の勝負は後日、その機運が起きたときにしませんか。意地で戦うのではなく信じることが相いれない時が来たら戦いませんか」
「・・・・」
「その代わり皆さんの興味ある話をお聞かせします。私と仲間で、異国船が来た翌日には船を仕立てて浦賀まで見に行き、異人を身近に見てきました。今日は夜通しその話をしませんか。敵を知ることは戦の常道ですよ」
「本当ですか」と急先鋒と思われた山田が反応を示した。
「異人と交換したものが在りますのでお見せ致します。待って居てください」
「・・・・」

 兵庫は持ってきた物を見せながら、
「これは偉人の腰帯です。穿(は)いていた軽衫袴(かるさんはかま)風の物がずり落ちないように締めていました。こんな風にです」
と兵庫は袴の上に締めて見せた。そして
「偉人は皆、大きかったです。腰帯の使っていた穴を見れば判ります」
と腰帯を外し日下に手渡した。
偉人の腰帯が三人を巡り、日下から兵庫の手に戻った。

「皆さん、子の刻まではまだ十分な時が残っています。私の首など役に立ちませんが、首のついた私は役に立つ話はできますよ。私と黒船まで行き、この手で黒船に触ってきた山中碁四郎という者が浅草平右衛門朝で船宿を営んでいます。私はこれから山中さんの所に行きます。途中で襲っても構いません。腰帯を置いてきます」と云い母屋に向かった。
志津は三人と戦う羽目に陥って居る兵庫を月明かりが届かない廊下の奥に座り見守っていた。
兵庫は志津に近づき「刀」と云い、腰の木刀を抜き、異人の腰帯と共に廊下に置いた。
志津は用意してあった刀を持ち、月明かりの当たる所まで出てきて兵庫に手渡した。
「碁四郎さんの所まで行ってきます」
「楽しいお話が出来るといいですね」
「その時は泊まりますので」
 この様子は三人も見ていた。
これ見よがしに木刀を差していた兵庫に、三人はある意味安心していた面があったが、目の前で刀に差し替えられた。
兵庫を他の二人より知っている日下は斬られると思った。
月明かりでも美しい志津の姿だったが、明るい中でさえ志津の欠点を見出すのは難しい。その美人妻を残して死なぬように全力を尽くすはずだ。
腹痛を起こしたために刺客に参加できなかった日下には仲間に負い目があった。その負い目が仲間を斬った兵庫を斬る話に加担させたのだ。日下には死ぬ覚悟など出来ていなかったのだ。

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Posted on 2016/04/21 Thu. 04:01 [edit]

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【鐘巻兵庫 第84話 身勝手(その11)】 

 一日経った九日、押上の養育所に梶と長谷部が姿を見せ、十軒店の飯屋に入り、店の番頭・お美代に朝飯を注文し、そして、
「私は梶、これは長谷部です。国へ戻るので鐘巻殿にお礼の挨拶に来たと告げてください」と頼んだ。
朝飯の膳が、二人が座った席のターフル(テーブル)に置かれる前に兵庫と根津甚八郎がやってきた。
腰を上げた梶と長谷部が兵庫と甚八郎に頭を下げた。
「国へ戻るそうですね」
「はい、少し遅れたので叱られそうです」
「日下さんは?」
「日下は我らとご同役ですが、住まいは江戸なのです」
「それと、日下は我ら二人を斬るお役だったことを話してくれました」
「刺客の片割れだった日下さんがイカを食って腹痛で寝込み、代わりに私が同行し、刺客の予定が崩れたわけでしたか」
「はい、イカに感謝し食べないことにします。鐘巻殿、勝手なことを申しますがお気をつけてください。私らには量れない者たちですから何をするかわかりませんので」
朝飯が運ばれてきた。
「ゆっくり食べて行ってください。梶さん、その荷物は着ていたものですか」
「はい、お借りした着物は次に来るときお返しします」
「それには及びません。それより早く着いた血は落とした方がいいです。今、着ている物と交換しませんか」
「交換?宜しいのですか」
「養育所は古着屋も始めたのです。染み抜き、繕いの稽古に使ってもらいます」
「お言葉に甘えます。ちなみにこの着物を作ってくれたのは山田大三郎という者です」
「気を付けるようにします」と応えると
二人は朝飯を食べ始め、食べ終わると水戸を目指して旅立っていった。
梶と長谷部がわざわざやって来たのは山田のことを言いに来たのだと兵庫は思った。

 押上の養育所に四歳の鯉吉の声が聞こえるようになり、他に大したことも起こらずに数日経ち十二日も暮れ、駒形の養育所の表に建つ十軒店は店仕舞をしていた。
その時常八が北十間川の向こう岸に十軒店を伺っていると思える三人の侍見た。
「お仙、ここを見張る者が向こう岸に居ると先生にお伝えしろ」

 知らせに行ったお仙が戻ってきた。
「先生は支度をしてくるので、見失わぬようにとのことです」
「分かった」

 さほど間を置かず兵庫が茶店の裏に出てきた。
その姿は侍姿だが、少し違っていた。
着て居る物は染みを抜き、繕い洗った梶が置いていった物だった。
腰には長脇差に木刀を差していた。斬るつもりは無いらしい。
兵庫は店の中から向こう岸を見て、侍が居るのを確かめてから通りに出て行った。
そして岸辺まで行き、向こう岸の侍に向かって
「鐘巻兵庫です。御用が在るのでしたらこれからそちらに行きますが、如何いたしますか」
「日下です。こちらは三人ですが一人で来てもらえますか」
「分かりました」
振り返った兵庫は、顔を見せていた者たちに
「手出し無用です」と云い川沿いを西へ歩いて行った。
それに合わせるように川向こうの日下も西へ歩いた。
増水した隅田川から水が流れ込み氾濫しないように埋め立てて設けられた堰堰を超えて北十間川の向こう岸に回った。
そこには兵庫と十間ほど間を取って日下が立っていた。そして兵庫に背を向け仲間が居る所へ戻っていった。
養育所の向かい側まで戻ってきて、兵庫が
「鐘巻兵庫ですが、先ずお名をお聞かせください」
「日下金八郎」「山田大三郎」「佐野武吉」 と三人が次々に名乗りを上げた。
「私は戦いたくはないのですが、戦う訳を教えてください」
「意地だ」と山田が応えた。
「身勝手な意地だけで私を斬るつもりですか」
「残された三人の意地だけでは鐘巻殿に勝てるとは思っていないが一矢(いっし)を報いた上で死ぬ覚悟だ」
「脱藩していただけましたか」
「お主が生き残ったときは脱藩したことになるよう手配は済ませた」
「私が死んだ証は何ですか」
「首だ」
「それでは負けるわけにはいきません。提案ですが聞いていただけますか」
「何だ」
「勝負は子の刻までとして、その後はこれまでのことを水に流すという、私の身勝手なお願いです」
「勝負が子の刻まで伸びるとは思ってはいないのでそれで構わぬ」
「それでは勝負の場を養育所内の道場では如何でしょうか。脱藩したとしても白刃を振り回し気合を発していては近隣の武家の目に留まりかねません。道場の誰にも手出しはしさせませんので・・・」
「それで、構わぬが身勝手な言い分はそれで最後にしてもらいたい」
「それでは、お越しください」

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Posted on 2016/04/20 Wed. 04:01 [edit]

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【鐘巻兵庫 第84話 身勝手(その10)】 

 一方、仲明に傷の手当てをしてもらった梶は日下、長谷部の三人で水戸藩中屋敷に向かっていたが、途中で日下が、
「梶、長谷部。屋敷に戻ったら、荷をまとめて出来るだけ明るいうちに国へ戻れ。昨晩狙われたのは私ではなくお主らだ。襲った者たちは私の仲間で、私はお主らを斬る役目だったのだ。だが天はお主らに味方した。私は罰かイカに中(あた)り、私に代わった鐘巻殿がお主らの警護役になった。事情を知らない私の仲間は私を斬るだろうが、その時はその時だ」
「何故、わしらを斬るのだ。訳を言え」
「先月黒船が江戸に来た。これで藩邸内は打ち払いの主戦派と少し様子を見ると云う日和見派が拮抗した。いずれにしても戦の支度に異論はなかった。ところが江戸の緊迫した様子は少し離れた水戸には伝わらず、金の使い方が軍備ばかりでは藩が疲弊すると反対する富藩派たちの意見が強い。そんな中お主らがやってきた。その要件が斬首された額賀の墓を内分の内に誰かに建てさせる。その金を円通寺に渡すと知った者が怒ったのだ。額賀は国の富藩派の信望が厚い人物だったから尚更だった。乱暴だが使いのお主らを血祭りに上げ、主戦派が藩政の主導を握ろうとしたのだ」
「わしらを斬って何のご利益があるというのだ。鐘巻殿が侍の虚学を笑っていたが、わしは泣けてくるよ」
「全くだ」

 そして三人は中屋敷に戻り、日下の長屋に入った。
当然のことだが、相部屋でもあることから日下等が戻ったことは屋敷内に伝えられていった。
私物を持った梶と長谷部が、日下に
「わしらは上屋敷に行き、御用を聞き水戸に戻ることにします」
と梶と長谷部が部屋から出ようとすると、押し戻された。
外から日下が戻って来たことを聞いた、日下の仲間がやって来たのだ。
「乱暴はするな」
「座れ」
こうしてやって来た四人と三人が向かい合った。
「日下、弁明しろ」
「あの晩私は下屋敷の晩飯でイカを食い中ってしまった。これは嘘ではない。それ以後に起こったことは翌日聞かされるまで全く知らなかった」
「今のことは本当です。同じように中った者は下屋敷に何人もいます。私は梶と申しますがあなたは私を斬ったお方ですか」
「こっちは吉五郎が死に栄之丞も大怪我でうなっている」
「大体、使いの私たちを何故襲うのですか、帰りには上屋敷の使いも残っているのです。何かは分かりませんが、また襲うつもりですか」
「お主に我らの志を言っても分からぬだろう」
「分からねば殺すのですか。藩邸内で刀を抜くのですか」
「とにかくお主ら三人は、暫くここに留まってもらう」
「分かりましたが、無用に人を襲い傷つけ、死に追いやった罪で腹を斬らせてやるから待って居てください」
「死など恐れる我らではない。日下、ここでは話がしづらい俺の部屋に来い」と立ち上がると、日下も立ち上がった。
「出ていく前に、私を斬ったお方の名を聞かせてください」と梶が訪ねた。
「山田大三郎だ」
「ご家族は」
「心配するな。わしのことは諦めている」と言い残し、外からやって来たものと日下が部屋から出ていき、梶と長谷部が残された。
その梶と長谷部も暫くすると私物を持って中屋敷を出て行った。

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Posted on 2016/04/19 Tue. 04:01 [edit]

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【鐘巻兵庫 第84話 身勝手(その9)】 

 兵庫は三人を養育所の中に案内した。そこには子供たちの弁当を頼み来た鬼吉が居た。
「内藤さんは?」
「今、奥で煙管師の丁次さんと倅の鯉吉のことで話し合っています」
「そうですか。それでは私が案内します。皆さんお上がりください」
 先ず三人は二階に案内された。
「ここは勉学の部屋と寝間を兼ねています。自由にご覧ください」
整然とした部屋には数多くの片付けられた真新しい文机が積み上げられ、算盤が載せられ、壁には手習いの見本字が貼られていた。
書棚には数多くの本が積まれてもいた。
それはいわゆる寺子屋の域を超えたものだった。
「論語・孟子は良いとして、この絵草子も見させるのですか」
「多少ませた所もありますが読めなければ卒業できません。ここで学ぶものの多くは実学です。侍が学ぶ虚学は教えません。教える者たちは皆、口先の虚しさを知った浪人ですから」
「傷に浸みる話です」手傷を負った梶が自嘲気味に応えた。
「それでは一階の道場を案内します」
 道場に入るには奥座敷のわきを通らねばならない。暑いから普段なら座敷の障子は開いているはずだが、兵庫が連れてきた客が通るのは分かっているので閉められていた。
 道場に入った水戸の若侍三人はまた驚かされた。道場という言葉の響きから思い描くものとは全く違っていたからだった。どこの道場も周囲は板張りで薄暗いのだが、ここでは障子仕立てに成っていて、しかも秋とはいってもまだ暑いから開け放たれているから明るい。
「ここは、職人の芸を学ぶ所ですが、子供たちの手助けが在って出来上がったものです。額賀殿が考えられていたものとは違うでしょうが、出来そうなことをやってみました」
「今日は虚学ではなく実学を学ばせて頂きました」
「それでは傷の手当てに仲明先生の所に行きましょう」
「お願いします」

 浅草元鳥越町に、札差山倉屋の屋敷を囲うように表店が在り、屋敷出入口の番所が一部表店と合わせた形で診療所に改装されていた。
医者は山倉屋の抱え医者でもある服部仲明である。
 診療所に入ると、兵庫の修行時代、片思いの相手だった田中菊が
「鐘巻様」と少しばかり大きな声で迎えた。
その声が奥まで届き、医薬修行中の服部要蔵、清水小次郎、山内勇太郎が姿を見せた。
「先生、お久しぶりです」
「また怪我ですか」
「またとは何ですか。今日は患者を連れてきましたのでよろしくお願いします。費用は養育所に回してください」
「分かりました」
「お帰りですか」
「はい、血を見るのが怖いので」
「冗談が出るということは、大した怪我ではありませんね」
「季節が良くないのでお願いします。これは着替えです」と持参した風呂敷包みを渡した。
「鐘巻殿、何から何まで有り難うございました」
「もう会うこともないでしょう。お元気で」

 元鳥越町から駒形の養育所に戻ると帳場には、鯉吉と遊ぶ鬼吉と鯉吉の両親丁次と楓が待って居た。
「先生、今日から鯉吉をこちら様にお願いし、勉強させることにしましたので、よろしくお願いします」
「そうですか。勉強は誰に教わることになりましたか」
「山内様のご息女、八重様にお願いしていただきました」
「それは羨ましい」
「まったくだ。それより先生、鯉吉は私が背負いますので、大事な弁当入り葛籠(つづら)を頼みます」
「分かった。遅れると恨まれるからな」
葛籠を担ぐ兵庫と鯉吉を背負う鬼吉の姿が見えなくなるまで、安堵の様子で丁次と楓が見送っていた。

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Posted on 2016/04/18 Mon. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

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