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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第90話 不足(その21)】 

兵庫が道場の周辺に置かれている縁台に座り子供たちが遊ぶのを見ていると、逸見与八郎がやって来た。
「帰られたのではなかったのですか」
「表の店の皆さんに、これから通うので挨拶に回っていたのです。十軒店の幟ですが店を開いているのは八軒ですね」
「そう見えますね。“店”の響きが物の売り買いを想起させますからね。でも表口の奥では養育所をやっていますし、道場口の奥では剣術を教えています。双方とも売り買いとは無縁に成って居ますが十軒店の一分です」
 逸見が兵庫の座る隣の縁台に腰掛けた。
「思えば、随分と無駄金を使ってきたものだ」
「そうかもしれませんが、ただ溜め込んで置くよりは世のために成ったと思いますよ。頂いた養育所分の五十両は子供たちのために使わせてもらいます」
「お役に立てば、くすねた甲斐が在ると云うものです」
「失礼ですが、与八郎殿の逸見家でのお立場は?」
「微妙です。廃嫡と思って居たのですが、此度の事件がこれまでの悪行を無かったことにするかも、宮仕えは弟の方が合って居るのです。先生だったらどうしますか」
「それは、応えられません。ただ、与八郎殿が宮仕えに合わないのは同感です。御蔭で私は与八郎殿にお礼を言わねばならないのです」
「六十三両のことですか」
「それも在りますが、金は直ぐに無くなりますが、実は少し賢くなったのです」
「分かりません。もう少しかみ砕いてお願いします」
「養育所では巷を彷徨う浮浪の者たちを早く見つけ出し、寒くなる前に引き取ろうと考えているのですが、それには探し出し話し合いで連れてくる必要があるのです。そのためには人手が不足していました。そこで志津に話したら、子供たちの移動の時に付き添わせている保安方が居るのですが、駒形と押上の日中の移動にもう保安方は必要ない、子供たちだけで通わせなさいと言ってくれたのです。これで保安方の手を借りられるようになりました。保安方の手を借りる目的は、実は子供探し以前に、網吉さんのことで、あなたに償いを払わせようと考えていたのです。しかし、貴方にはやくざ者四人が付いているので、こちらにも人を集めないといけなかったのです。そこで志津に喧嘩をするので人集めの話をしたら叱られますから、子供探しと云って、保安方を役目から外したのが真実なのです」
「お話は分かりましたが、賢くなったとは奥様を騙すことが出来たことを言っているのですか」
「私は人を特に妻を騙せないようです。話をし終えた時、半ばばれていると感じました。(その1参照)」
「それでは賢くなったのは何ですか」
「逸見さんの御蔭で、保安方の役目を一分解いたことで、子供たちが期待通り自分たちの安全のために助け合う気持ちが更に増しました。任せることが人を育てると同時に、出来た余裕で他の仕事が出来る。その後遺症は私が暇になってしまう事です」
「そうは仰いますが、昨日は一人で仕切って居たように思いますが」
「それは違います。最後は逸見さんに任せたでしょう。私たち八人は二つ目橋近くで男谷らが戻って来るのを待って居て、男谷そして斬られた者を助ける榊原の姿を見てから逸見殿の屋敷に行ったのです。嘘では在りません」
「嘘とは思いません。私も門番に鐘巻さんが来るかもしれないと云っておきました」
「確かに、息が合いそうですね」
「決めました」
「何を」
「家督は弟に譲ることですよ」
「それは決心ですね。もし、そうなった時は養育所では受け入れる用意はしますが、廃嫡の届け出理由を剣術修行のためとしてもらえれば、私を育ててくれた板橋の運風流相川道場を紹介します」
「有り難うございます。先ずは屋敷に戻り、話してみます」

 逸見を見送った兵庫は、部屋に戻った。
「逸見様とお話を成されておりましたが・・」
「はい、決まったことでは在りませんが、近々、受け入れることに成りそうです」
「受け入れるのは良いのですが、若い男ですから駒形に成りますね」
「実は廃嫡の手続きを踏む必要があるので、その訳を剣術修行としてもらい、修行先を相川先生の所にしてもらうよう言っておきました」
「廃嫡ですか、なにが不足していたのでしょうか」
「分かりませんが、与八郎殿自信の不足が問題ならそれに気づき、その不足を満たす努力をしたと思います。しかし不足はご両親に在ったのではないかと思って居ます。弟殿に目を掛けているようです」
「不足が与八郎殿にではなく、ご両親様の方に在ったとすれば、放蕩は自ら廃嫡の道を選んだ、親孝行になりますね」
「廃嫡をするにはそれなりの訳が必要ですからね。その不足する訳を演じたのでしょう。今日会った金を持たない与八郎殿は何も演じることなく、純な己を出していましたよ」
「幕府はお金が不足したと云って粗悪な貨幣改鋳を行うご時世です。そんな時だからこそ、より純な人が必要だと思うのですが・・・」
「幕府に有能な者を求める動きが不足しているからです」
「幕府や他人のことを言っても始まりません。世に不足は満ち溢れているでしょうから、知恵を出し合って不足を減らしていきましょう」
「そうですね。暇で草鞋造りをしている旦那様を見るのも嫌いでは在りませんが、時の不足に向かい合って居る旦那様も捨てた者では在りませんよ」

第九十話 不足 完

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Posted on 2016/09/20 Tue. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第90話 不足(その20)】 

 やって来たのは、畳んだ地天の半纏を持った志津だった。
「網吉さん。名前を入れておきましたよ」と網吉に半纏を手渡した。
「奥様有り難うございます」
「どういたしまして。漢字ではわかりづらいので仮名にしましたから、離れてみても網吉さんの物と分かりますよ」
 それは墨で書いた前の字を一旦墨で潰したうえで、黒糸を細かく刺し、台を作り、その上に白糸で「あみ」の二文字を丁寧に刺繍したものだった。
それは独り者の鬼吉を羨ましがらせるに十分な出来だった。
「奥様、私の物にも“おに”と入れて貰えませんか」
「構いませんが、何方かに恨まれるのは嫌ですからね」
「居ませんよ」
「それでは持って来てください」
 そして、朝飯を知らせる板木(ばんぎ)が打たれた。
「逸見さん、わたしのおごりです。飯屋で朝飯でも食いながら乙次郎さんから、ここのことを聞いてください」
「それはどうも先生、一文無しなものですから」
「もし午後も此処で暮らすつもりでしたら朝飯を多めに食べておいてください。養育所の者は昼抜き、晩抜きの断食で過ごします。そう云う事で昼飯はおごりませんからね」
兵庫はそういうと志津の後を追った。
そして、孫三郎は志津の後ろ姿を追っていた。
「聞きしに勝る美人ですね。どうしたあのような美人を嫁さんに出来るのかな」
「孫さん、考え違いしちゃだめだ。先生が奥様を捕まえたのではなく、奥様が先生を捕まえたのです。もう一つ言うと山中先生の奥様も美人ですがこれも奥さんが山中先生を捕まえたそうです」と乙次郎が話して聞かせた。
「先生と比べて俺は何が不足しているのだ。教えてくれ」
「語りきれねぇくらい在りますよ。帰らねぇなら、あとで子供たちに聞いたら如何ですか」
「いや、朝稽古が済んだら帰れと言われているんで」神門の者たちは帰って行った。

 広間に並んだ膳を前にして兵庫が、
「聞いた者も居るかもしれませんが、今日の食事は朝の膳だけにし、昼と晩は抜きにします。大人も子供もです」
「兄上様、何故ですか」
「お玉、よく聞いてくれました。食べられることに感謝するためです。お玉、毎日食べられることに感謝していますか」
「お玉は頂きますと、ごちそうさまは云うけれど、有り難うと云ったことは無いです」
「それでは、浮浪の時はどうだったかな。おにぎりを貰ったら何といいましたか」
「ありがとう・・・あっ 言っていた」
「“頂きます”は“私のために食事を用意してくれて有り難うございます。頂きます”の長い前の部分が無くなった言葉なのです。肝心の感謝の言葉を省いたのは、毎日食事が出来ることが当たり前になって来たからかもしれないね。そのために食事に対し感謝の気持ちが薄れてきています。人は在るもの無くなって初めてその有り難さに気づくのです。私が口で言うより、実際にお腹を空かせば誰にでも分かることです。一年に一度ぐらいは感謝する日を作るのも良いでしょう。月に一度の方が良いですか」
「一年に一度・・」と子供たちが応えた。
「それでは一年に一度にしましょう。しかし、一年に一度で済まなくなることも在ると思って居て下さい」
「兄上様、分かりません」
「食べることだけでは在りません。色々なものが不足して困ることが起きることが在ります。例えば、地震、大風(おおかぜ)、大水など天地の災い、また人が起こす火災などです。その日のために備えることも忘れないことです。それでは頂きます」
「頂きます」

 時は平穏に流れて行った。
駒形で朝飯を食べた子供たちの内、文吉ら八人がやって来た。
子供たちは昼飯が無いことを忘れたのか、気にすることもなく駆け巡って居た。
兵庫は子供たちの声に誘われ、庭に出て行った。

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Posted on 2016/09/19 Mon. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第90話 不足(その19)】 

 帰り道、堅川に架かる三つ目橋を渡ると暮れ六つの鐘が鳴った。
「網吉さん、その半纏は私が預かり名前を入れ直し、返します」
「お願いします。私の失態で奪われた半纏が皆様の御蔭で無事戻りました。胸がいっぱいで鐘が鳴るまで飯のことも忘れて居ました。有り難うございました」
「網吉が飯を忘れたと云う事は本当に満足したということだな」鬼吉が
「良いことを思いつきました」
「先生、何ですか」
「明日の昼飯、晩飯を抜くことにします」
「それが何故良いことなんですか」
「今、網吉さんが感激で食を忘れると云ったのは喜びの大きさを言ったものですが、養育所の子供たちも別の意味で食を忘れています。浮浪の時代では起きてから寝るまで、もしかすると夢の中でも飢えのため食を忘れることは無かった筈です。そのことを思い、私は子供たちに飢えの心配をさせないようにして来ましたが、養育所を出た後に飢えないとは限りません。奥村先生ご家族、新発田から来られたご家族のように、降って湧いたような不幸はいつ来るかわかりません。子供たちには先ずは飢えを忘れさせないことです。飢えが来ることを忘れなければ何らかの対処を考えるものですからね。駒形に戻ったら内藤さんと賄い方に伝えて下さい。それと明日も朝稽古に来て下さい」
「分かりました」
鬼吉と網吉が分かれ駒形へ去って行った。

 このことは押上に戻った兵庫から、女たちを束ねる妻の志津に伝えられ、さらに明日の賄いに携わる女たちに伝えられた。
 そして、嘉永六年八月十三日(1853-9-15)の朝が明けて行った。
養育所内に住む男たちが朝稽古を始めた。そして近隣からは見慣れた顔が、駒形からは子供たちがやって来た。
外からやって来た者の中に、昨日は来なかった新門の孫三郎等が、そして、少し遅れてだが逸見与八郎もやって来て、旧知の仲?に成って居た男たちを喜ばせた。
稽古を中断し兵庫から逸見与八郎の名だけが紹介された。
「今、私がここに立って居られるのは、皆様のお蔭です。有り難うございました。ここに通い精神を洗い直しますのでよろしくお願いします」と与八郎が頭を下げた。
これを聞いた子供たちは昨日、兵庫が言った“大人の事情”が何だったのか分かる者も居た。
しかし、逸見を見て一番驚いていたのは神門の者だった。実は新門は多くの目で養育所の動きを見ていたのだ。新門は兵庫の勢力範囲が広がっていくことを危惧していたのだ。
逸見に昨日何が起きたかは知っているのだ。しかしそれは目で見たことの寄せ集めだった。
逸見の挨拶を聞き、見逃している重大な事実が在ったことに気付かされたのだ。
 そして朝稽古が再開された。男谷道場の高弟として紹介されていた逸見だったが、稽古不足か朝稽古について行くだけで背一杯だった。
子供たちが駒形に戻るために抜けると稽古はさらに激しくなった。
疲れた逸見が朝稽古から抜けた。
その相手をしていた網吉も稽古を止め、面を脱いだ。
上がった息を吐きながら、逸見が網吉に
「いつもこんな調子ですか」と尋ねた。
「これ以下には成りません。もう結構ですと云いたくなったことは何度も在ります」
逸見は分かると頷きながら笑った。
誰かが稽古から抜けると、それに続く者が出てくる。そして、朝稽古が終わった。
が、新門の者と逸見は帰ろうとしなかった。
「逸見さんは、もう少し身を軽くするよう、走りなさい」と兵庫が言えば
「逃げ足を早くすると、勝てないまでも負けにくくなりますよ」と碁四郎が補足した。
「まだ、襲われますか」
「これまでの悪行、昨日の功名。恨みや功名に対する妬みは、物騒な相手呼ぶのです。兵さんも以前はよく腕試しの相手として狙われたのです。皆、あの世で後悔していますがね。でも逸見さん程度だと、相手を喜ばせてしまう恐れが在りますから、逃げ足を鍛えるのがいいのですよ」
「ひどい言われ方ですね。これでも昨晩は界隈の武家がだいぶ来られ功名話を聞きに来たのです。ですから、たしょう尾ひれを付けて語って聞かせました。それには親父まで感激していましたよ。最後にこれも男谷先生のお蔭ですと言っておきました」
「どうして、男谷を持ち上げたんですかい」と常吉が問いただした。
「もし、私の話で男谷道場に入門する者がでれば、私を破門しづらいでしょう。そう思いませんか」
「なるほど、私より男谷先生を知る逸見さんが言うのならそうかもしれませんね」と兵庫は急いで話を締め括った。
と云うのは背後に下駄の音を聞いたことと、皆の目が兵庫から離れたためだ

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Posted on 2016/09/18 Sun. 05:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第90話 不足(その18)】 

 やって来ていた役人は定廻り同心の坂牧だった。
兵庫と目が合ったが、言葉を交わすことなく、坂牧は形通りの調べを始めた。
そして、
「おおむね辻番が見た様子と同じですが、相手と襲われた訳でお気づきの点が在ればお聞かせ願いたい」
「見知らぬ者でしたが、身なりも悪くない総髪の者でした。襲われた訳は全く分かりません」
「失礼ながら、恨まれるようなことは御座いませんか」
「ある。在るが、それらの者は皆、貧しい者で、身なりが全く違って居た」
「なるほど」と云い、坂牧は逸見の肩越しに兵庫を見て、
「ところで、鐘巻さん何故ここに居る、それも大勢引き連れて」
「お話したいのですが、あまり他人には聞かせたくないので、野次馬を遠ざけて下さい」
「分かった」と岡っ引きを見た。
野次馬が更に一間ほど遠のいた。
「実は逸見さんと手下のやくざ者四人に、養育所の網吉が風呂叩きに遭いましたので、そのお礼を返すため、深川花街の入り口近くで拉致し船で大川に出ました。そこでやくざ者に逸見殿を殴らせ、絆を裂きやくざ者を解き放ちました。その後、逸見殿と和解し、小名木川の高橋の船着き場で逸見殿と私ら八人が船から陸に上がりました。私たちが二つ目の橋を渡り堅川沿いの道を歩いていると富川町で斬り合いだの声が聞こえたので、二つ目橋に戻り、屋敷前までやって来たのです。その時は辻番殿が現場を押さえ、野次馬が取り囲んでいました。もしかして逸見殿が怪我でもしていないかと屋敷内に入れて貰ったのです」
「坂牧様。その話もほぼ一致します。やくざ者四人も逸見差が戻る暫く前に帰って来て、荷物をまとめて出て行きました」と辻番がいい、裏付けた。
「まあいいだろう。ところで、鐘巻さん・・」といい坂牧は座り莚を開けた。
「この刀、だいぶ研ぎ減りしているようだが、この様な刀でよくも斬りかかったとは思わぬか」
「確かに、私もこの刀では斬り合いはご免ですね。ただ、拵えはかなりの物ですから、礼装様ですね」
「そうだ、だからこの腕の持ち主は何かの集まりで家を出たが、人を斬らねばならない流れに変わったのだ。逸見殿の流れが鐘巻さんによって無理やり変えられたようにな・・・まあ、深い事情は聞かないが、逸見殿の刀も見せて貰おうか」
坂牧はこの事件がら、不都合な匂いを嗅ぎ取って居た。
「屋敷の中ですので、お入りください」
屋敷内には逸見と坂牧と兵庫が入った。
坂牧は出された逸見の刀を見ていた。その坂牧に、兵庫が
「此度のことで逸見殿から養育所が五十両取りましたが、これは渡せません。私たち十三人の取り分は一人一両でした。できれば私たち並みでお願いしたいのですが」
「それでいい。わしも岡っ引きを何人か使って居るので物入りでな」
「分かっています。逸見さん財布に未だ残っていましたね」
「はい、一・二枚ですが」
「すみませんが、お願いします」
 逸見の刀を検分し終え、懐に二両ほどを入れた坂牧が
「御役目ゆえ失礼いたしました。腕を失った者が訴えない限り、表ざたにはならないと思います。刀は手入れして頂いて結構です。それでは表を片付けますが逸見殿は結構です」
 こうして、坂牧と兵庫が逸見家から出た。
「伝六、腕は塩漬けにしてくれ。刀は晒を巻いておいて、近くの自身番で数日保管して貰ってくれ。その間に引き取り手が出て来なければ腕は埋め、刀は奉行所で引き取る。これで頼む」と云い坂牧は二朱を岡っ引き・伝六に渡した。
「坂牧さん、私たちはこれで引き揚げます。お忙しいでしょうが、たまには養育所に来てください」
「暫く押上方面には行って居ないので近々行くよ」
「お願いします。定廻りが顔を見せるだけで、悪党が減りますので」
「嬉しいことを言ってくれますね」

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Posted on 2016/09/17 Sat. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第90話 不足(その17)】 

 金を配り終った兵庫が、
「逸見殿、お帰り頂きます。刀をお返ししますが、お気を付けください。襲われるとすれば屋敷の門前と思います」
「やはり、そうなりますか」
「男谷が白を切るためには逸見殿が邪魔ですからね」
「今日、橋の上に居たのは、男谷と榊原と名を知らぬもの一人だった。私を襲うとすれば見知らぬ者でしょうね。どうすればよいでしょうか」
「私なら間合いに入ったら容赦なく抜き打ちにします。そのためにも船を降りたら鯉口を切っておくでしょう」
「ご教授有り難うございます。昨日の敵は今日の友と申します。門前までお願いできませんか」
「それでは一時しのぎにすぎません。いつまでも付け狙うのが男谷ですから、先ずは自力で出鼻をくじくことです。その後、逸見殿が地天流に通うように成れば、門人として、友として守るのに私は手をこまねくことはしません」
「無事に戻れました暁には、南(色町)には通わず北(鐘巻道場)に通うように致します」
「お待ちしています」

 小名木川に入った船は高橋の手前、常盤町の船着き場で、川向こうから来た碁四郎らを除く兵庫等八人と逸見が船から陸に上がった。
高橋と二つ目橋を南北に結ぶ道を少し北に歩き、十字路で逸見は東へと別れて行った。
「先生、逸見さん大丈夫でしょうか」と甚八郎が訪ねてきた。
「分かりません。襲われるとしたら、私たちが二つ目橋に着くころでしょう。また、男谷たちが渡る橋も二つ目橋、そこで暫く待って首尾を居ましょう」
男谷の道場は二つ目橋の北の亀沢町に在るのだ。

 二つ目橋を渡った兵庫等は川沿いの道を少し東に入った柳の影や相生町の店を覗き待って居た。
暫くして、堅川の対岸を急ぎ足で二つ目橋へ向かう侍は男谷だった。
そしてその後、二十間ほど離れ付き添う者と付き添われる者の二人が駆けてきた。
付き添われる者の羽織からは右手が出ておらず、紐がぶら下がっていた。
「右腕を落とされたか」と兵庫が呟いた。

 三人が橋を渡り通りから姿を消したところで、兵庫は二つ目の橋に戻った。
橋の上に血痕が走っていた。
「見に行きましょう」と兵庫が皆を誘った。
 逸見屋敷の門前に行くと、辻番が立ちその足元には筵を駆けられて見えない何かが在った。逸見家の門は閉じられていたが、脇門の外には見覚えのある顔・門番が立っていた。
兵庫が近づくと門番も気づき、歩み寄って来た。
「与八郎様がもし鐘巻様が来られましたら通すように言われております」
「八人いるが構いませんか」
「どうぞ」
「こうして屋敷内に八人が消えた」
それを玄関先で、与八郎が待って居た。
やって来た役人に、いつでも応対するためだった。
「怪我をしていないようで、安心しました」
「六十三両で命拾いしました」
「証人は居ますか」
「はい、辻番がいつも私を見ていますから・・・」
「相手は右腕一本ですか」
「はい、傷口がこちらを向いたため、この様に血を浴びました」
「何か手助けが必要になりましたら、遠慮なさらず使いを寄越してください」
「有り難うございます」
「忙しくなるでしょうから、失礼しますが相手は誰でしたか」
「見知らぬ者ですが、男谷と橋の上に居た者ですが、聞かれたら見知らぬ者と応えておきます」
「それで宜しいでしょう。貸を作っておくのも悪くは無いでしょう」
「しかし、私には親父殿のような才覚が無いから、貸し倒れに成らねばいいが・・・」
笑いが起きた。
「親父殿は?」
「荒っぽいことは私の役目だから、知らせては居ない」
「もう、男谷道場には通えないでしょうから、押上の朝稽古にでも来て下さい」
「朝、寝ている私にとっては宗旨替えですが、努力してみます」

 脇門が開き、外に出ていた門番が顔を見せ
「与八郎様、奉行所の者が話だけでも伺いたいと申しております」
与八郎は門に向かって歩くことで返事をした。
門外に出て行く与八郎に従い兵庫以下八人も外に出た。

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Posted on 2016/09/16 Fri. 04:01 [edit]

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