03 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

プロフィール

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カレンダー

【鐘巻兵庫 第91話 夜空(その26)】 

 兵庫が志津の書いた物を取り上げ、皆に見えるように広げた。
「ご覧のように、読まれている辞世は一首ですが、これで、羽賀保殿と稲葉半三郎殿の二人分です。上の句を羽賀殿が詠み、下の句を稲葉殿が詠む、連歌の形をとっています。更に言えば、発句が“いざよいの”ですから羽賀殿はそれまでに殺されてはいないことに成ります。この方策の良いところは誰も殺されて居ないと云うことです。ただ、羽賀殿は腕の傷が悪化したため、死を選ぶことにしたのです。それを聞いた稲葉殿は羽賀殿がそのような不本意な立場に陥ったのは自分に責任があると、二人で腹を切る道を選んだのです」
「出来過ぎている気もするが、これなら男谷先生を引き出すことが出来るかもしれぬな」と羽賀の父が言い、受け入れる姿勢を見せた。
「羽賀殿に受け入れて頂ければ、この方策で行きましょう。それでは肇殿、保殿に成り代わり、左手で上の句を模写して下さい」
そこまでするのかと羽賀肇は思ったようだが、兵庫は文机から身を引くと、羽賀が座り、志津が書いた手本の上に紙を置き、文鎮を置き左手で筆を取った。何度も硯の上で文字を書いていたが、意を決すると慎重に模写を始めた。そして書き終えた。

「それでは、男谷道場に参りましょう。男谷先生との顔つなぎをしますので新門殿も、お願いします」
「分かりました」
こうして兵庫、新門の三人、羽賀家の三人が兵庫の先導で男谷道場へ向かった。

 突然の兵庫等の訪問は歓迎されなかった。
そこで、後ろに控えていた新門辰五郎が出てきた。
「手前は浅草の火消の頭をしています、新門辰五郎と申します」と控えめに話しかけた。
新門の顔は知らなくても名を知らない者は少ない。
兵庫と角突き合わせていた歳の近い侍が、一瞬言葉を失った。
「ここに来るのに二の足を踏んだ鐘巻様を引っ張り出したのは手前で御座います。ただ、それでも参ったのは男谷先生また直新陰流にとって大事なことを話すためです。そのことについては羽賀様もご存知ですので、鐘巻様、私ども抜きでお話をしていただけませんか。お取次ぎをお願いします」
 応対に出ていた侍の一人が奥に消えて行った。
「私の用は終わりましたね。後のことは宜しくお願いします」と云い兵庫は男谷道場をあとにした。
労を惜しむことなく動いた兵庫の働きを見てきた、羽賀親子が兵庫の後ろ姿に頭を下げていた。

 押上に戻った兵庫に、志津が、
「やはり嫌われてしまいましたか」
「はい、辰五郎殿が年の功で、何とか羽賀殿だけでも男谷先生に会わせて欲しいと頼み、受け入れられそうに思えたので戻ってきました。

時が経ち駒形から来ていた男の子たちが帰り、夕飯も終わった。
片付けを済ませた女の子たちは、志津に御粧(おめか)しをさせて貰っていた。
嬉しそうな声が、道場の縁台に座り、月の出を待つ兵庫の耳にも届いていた。
今日の空は昨日の曇り空とは反対で、澄んだ空しかなかった、
地上から夕陽の赤みが消えて行った。
子供たちが、兵庫が作った月見の席に出て来て座った。
少しして十六夜の月が昇り始めた。暫くして月が宙に浮いた。
「本当だ、昨日の満月より今日の十六夜の方が丸いお月様だ」女の子が云うと、
「本当だね」の声が上がった。
志津が千丸を抱きやって来ると、兵庫の隣に腰を下ろした。
彦次郎が、文机に線香立てを乗せ、佐吉が火のつたロウソク立てを持ってきて道場の中ほどに据えた。
 兵庫が立ち上がり文机の前に敷かれた毛氈に座り線香を上げた。
そして、志津が線香を上げ、その流れが子供たちに引き継がれて行った。
養育所内の大人たちも線香を上げて行った。
誰もが十六夜の月の出と共に、若い侍の命が失われていくことを知って居た。

 そして、その線香が燃え尽きた頃、神門辰五郎と孫三郎と留五郎そして羽賀登、肇親子がやってきて、「お見事なご最後でした」と辰五郎が告げた。
兵庫はただ頷き、線香を上げさせた。
線香を上げた新門や羽賀は戻って行った。
逸見与八郎が最後に線香を上げた。
夜空を見上げる与八郎の目に光るものが在った。

第九十一話 夜空 完
 ←ボタンを押す。情けは人のためならず

Posted on 2016/10/17 Mon. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第91話 夜空(その25)】 

 部屋に戻った兵庫夫妻、新門の三人、羽賀親子、逸見の距離は近づいていた。
「この後、稲葉家に伺うことに成るのですが、落としどころを話し合っておきたいのですが」
「差し出がましいことを申しますが、落としどころを如何にするかで、一番お考えなのは鐘巻様です。また今回の事件から一番遠いのも鐘巻様。より公平な落としどころをお持ちと存じます。お聞かせください」と新門辰五郎が口火を切った。
「私は、この事件以前より稲葉半三郎を知って居ますが、印象が良くないので語りたくありません」と逸見が下りた
「わしは、稲葉のことは何も知らぬが、倅を殺された以上、死をもって償って貰わねば納得出来ぬ」
「分かりました。改めて申しますがこの事件を私が引き受けたのは、新門殿の話を聞き気に入ったからです。新門殿は男谷先生を高く評価されており、新門殿のお考えでは、異国船来航後の幕府の武士を纏められる旗本は男谷殿と云う事です。今回の事件で男谷先生の高名に傷が付くことを危惧されたのです。というのは、逸見殿、羽賀保殿、稲葉半三郎殿の御三方が皆、男谷先生の御門弟だからです。身近の門弟すら纏められないとの噂が立たないように至急納めねばなりません。男谷先生に幕府剣術方の総帥に据えるためですから、御門弟の皆様にとっても名誉なことです。これを前提に落としどころの話をさせて頂きます」
頷いた一同が少しばかり前のめりになり、兵庫の言葉を待った。
「稲葉殿には、男谷先生のことも合わせ話した上で自らを裁いて頂きます。こちらでは一切手を下しません。それにより咎人が出ることを避けるためです」
「それなら当家でも受け入れられる」と羽賀が言った。
「それでは、稲葉屋敷に出かけますか」と兵庫が羽賀を促した
「旦那様、それでは駄目です。旦那様は表に出ずに黒子に徹して下さい」
「そうしたいのですが、何方に任せればよいのですか」
「表に立っていただく方は男谷先生以外に居ません」
「分かりますが、・・・」
「同じ言葉でも男谷先生の口から出れば、旦那様から言われるのとは違う、温かさが加わります。死んでいく者だけではなく、ご家族にとって慰めになります」
 志津の云う事は理解できたが、男谷に兵庫が請け負ったお役を任せるられるのか、兵庫の思考は止まってしまっていた。
「旦那様、今夜は十六夜です。間違いなく月も出るでしょう。私がお二人に成り代わり和歌を詠みますので、見て下さい」
「分かりました」

志津は膝の千丸を兵庫に預けると、部屋の隅に置かれている文机に向かった
暫く考えていたが、

“いざよいの 月の光に みちびかれ”
“迷わず向う 黄泉(よみ)の道かな”

上句は仮名を多めに・大きめに確かに、
下句は流麗に紙に書きしるした。

「旦那様」と志津が呼んだ。
 兵庫が千丸を抱き歩み寄り立ったまま、文机の上の和歌を見、読んだ。
「これで二人分ですか」
「この上に紙を乗せ、上の句を羽賀肇様に左手で書いて頂き、下の句を稲葉半三郎様に書いて頂きます。これで二人は今日まで生きていたことに成ります。誰も亡くなって居ないことに成りますが、この辞世を残しお腹を召したことにしたいのですが」
兵庫は頷き、止まっていた思考を動かし始めた。

 抱いていた千丸を志津に戻すと、文机に手を掛け持ち上げると、居並ぶ者たちの前に置き、自らは文机を前にして座った。
「私が請け負ったお役を男谷先生にお任せする手が見付かったような気がします。それをご披露いたします」

 ←ボタンを押す。情けは人のためならず

Posted on 2016/10/16 Sun. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第91話 夜空(その24)】 

 この時、逸見は十軒店から、養育所内に移り、それも兵庫の部屋が見える道場の縁台に座り様子を見ていた。
もちろん子供たちも居て遊んでいたが、客が来ていることも在り、声を上げることは少なかった
 お玉が廊下を道場の方に歩み、逸見与八郎を見て座わり、頭を下げた。
そのお玉を皆が見たが、動いたのは逸見ただ一人だった。お玉の挨拶が大人に対するものだったからだ。
お玉に歩み寄った逸見は廊下に座る小さなお玉に合わせるように腰を屈めた。
お玉は、逸見の顔を見て、首を振り「い・ろ・は・に~」「い・ろ・は・に~」を繰り返し言い、己の口元を緩めて見せた。
侍たるもの歯を見せずに真一文字に唇を締めるものとしか教わらないご時世だが、逸見は直ぐに顔の緊張を緩め「い・ろ・は・に~」と云って見せた。
「母上様が、お呼びで御座います。縁先にお廻りください」とお玉が告げた。

縁先に立った与八郎、口元が緩んだだけではなく、志津たちを見る目から、鋭さも去っていた。
「奥様、御用でしょうか」
「用ではなく、顔合わせです。部屋にお入りください」
誰と会うかは分かっている。決して笑顔で顔合わせする相手ではない。それは相手の羽賀家の者にとっても同じで目は向かい合う新門を見、逸見に向けることはしなかった。

 座敷の下座に座った逸見に、志津が
「無理やりの顔合わせを思いついたのは旦那様です。なぜこのようなことを思いついたのかは分かりませんが、先年の暮れ雪の降る日に、旦那様は旗本のご子息に背後から襲われ薄手を負いながらも相手の片手を斬り落とす今回と似たような事件に遭遇したのです。仔細は申しませんがこの事件は司直の手に委ねられ、旦那様は揚屋に入れられ、お相手はお屋敷にて謹慎しながらお裁きを受けました。そのお裁きの最中、白砂の旦那様の問いに窮したお相手が、残る手を使い自刃いたしました。この事件がもしかすると心残りで、互いの立場を理解させ、この事件でお上のお手を煩わせずに済ませたいとの思い付きでしょう」
「関係者が真実を共有することで、彼我を比べ理解し合うことで互いに納得できる落としどころ探す手助けにでもなればと思ったのです。今回の顔合わせは逸見さんより羽賀殿を狙ったものです」
「羽賀家のため?ですか」
「ためと云う事ではなく、より多くの忍耐を養って頂くための手始めの段取りです」
「より多くの忍耐ですか」
「はい、今回の事件で逸見殿は廃嫡と云う侍にとって耐えがたいものですが、得たものも在るようです。それは束縛から解放されたことでしょうか。この様な侍は少ないですが、私には理解できます。一方羽賀殿の方ですが、逸見殿に恨みを持つ合理的な理由が在りません。ただ、倅殿がその後殺害されたことを知ったため、その根源に逸見殿が居ると思いたくなりますが、殺したのはこれから会いに行く稲葉半三郎です。ここで逸見殿に対する感情は押さえて頂けなければ、とても次の段取りに進めませんよ」
「分かった。感情に流されぬようする」
そこで、板木が打たれた。
「広間で昼飯です。子供たちも加わりますので、楽しい食事をさせて下さい」
こうして、新門、羽賀家、逸見と兵庫と志津に千丸が広間に移り、昼食が始められた。
 子供たちにはどのような客かは知らされえて居ないが、大人たちの様子から大人事情と認識され、口数も少なく食事は終わった。
 子供たちに、志津が、
「今日は十六夜(いざよい)です。昨夜とは違い野宿しなくても見えます。干した布団を持ち帰り、何が良いのか探してください。今朝と同じように明日話を聞かせて下さいね」
「はい、母上」
「それでは、ご馳走様でした」と兵庫が締めた。

 ←ボタンを押す。情けは人のためならず

Posted on 2016/10/15 Sat. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第91話 夜空(その23)】 

 兵庫は、養育所までの道すがら、川の名、通りの名、橋の名、男谷道場がどの辺に在るかを説明しながら子供たちの声が聞こえる養育所にやって来た」
兵庫がどこに出向いたのかは皆が知って居るから、多くの者は兵庫が連れてきた者たちが逸見に片腕を斬られた者の身内と直ぐに認識した。しかし、認識するだけで済まない者がいた。
逸見与八郎自身だった。茶店に入り置いてあった己の刀を掴み腰に差し、反りを打たせた。
 兵庫は十軒店の表口前に立って、
「常吉さん、何方か来られましたか」
「はい、今、奥様の所に新門辰五郎さんが二人連れて参っております」
「与八郎さん、後ほど呼びますので控えていてください」
与八郎はあたまを下げながらも、目は上向き羽賀親子を見据えて応えた。

 兵庫が羽賀親子に小者の惣吉を連れて、妻・志津が待つ部屋に入って行った。
そこには、新門辰五郎、甥の孫三郎と留五郎が居て、
「お邪魔しております」と頭を下げた。
「わざわざ、有り難うございます。羽賀家の皆さまはこちらにお座りください」
 茶が運ばれてきて、来たばかりの羽賀家の三人に、そして新門の茶が下げられ新しい物がおかれた。最後に兵庫と志津に出され、女八人が去って行った。
「先ずは顔合わせを致しましょう。お連れしましたのは、
「当主の羽賀登と申す」「拙者は羽賀肇」「手前は小者の惣吉と申します」
兵庫が辰五郎を見て挨拶を促した。
「手前は浅草の火消のお役を賜っております、人様には新門辰五郎と呼ばれております。お見知りおきを頂ければ幸いです」
「手前は、甥の孫三郎と申し駆け出しで御座います」
「手前は、使い走りをしています、留五郎で御座います
「話の進展は在りましたか」
「はい、羽賀保様を殺害した者の名は既にお伝えしています旗本の倅・稲葉半三郎に間違いありません。殺害の訳は、羽賀様が予想だにしなかった怪我を負ってしまったことで、男谷先生は悔いたようです、男谷先生の名を傷つけずに門弟たちで処理するとことなり、その方法を決める前に、稲葉が中間らを使い道場から連れ出し、殺し遺棄したとのことです。なお、羽賀様は稲葉に対し恨み言を一言も言わなかったそうです。鐘巻先生、どうかことを荒立てずに穏便に納めて下さい」
「今の話を伺い、羽賀殿が心穏やかに亡くなったのなら、稲葉殿にも心穏やかに後を追って貰えるかですね。羽賀様納得して頂ければこの話を持って、稲葉屋敷に参りますが如何でしょうか」
「羽賀家としても褒められたことをしていないので、穏やかに済み後々ぶり返さないことを願うだけです。稲葉家が受け入れるかが気がかりだが、異存は在りません」
「それではこの事件の発端になった逸見さんを呼びます。逸見さんもこれまでの一生を廃嫡されることで棒に振り、出直すことに成りました。双方共に会いたくないでしょうが互いに理解するためにあって頂きます」
「お玉」と兵庫が大声を上げた。
直ぐにつかまり立ちを始めた千丸の手を引いたお玉がやって来て廊下に座った
「お玉、逸見さんをここに呼んでください」
「逸見様はこんな顔をしていました」と云い、顔を膨らませて見せた。
「怒って居ましたか」
お玉は、こっくりをして見せた。
「それでは、母上が呼んでいると伝え、縁側の方に回ってもらいなさい」
「はい、千丸ちゃんは母上様の所まで歩けるかな」と云い、千丸を志津に向けて手を離した
千丸は狭い歩幅で数歩歩き、ぱたっと倒れ、自分には二足歩行より早い四足歩行が在ると一気に進み、志津の膝に乗った。

 ←ボタンを押す。情けは人のためならず

Posted on 2016/10/14 Fri. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第91話 夜空(その22)】 

 倅・保の死を知らされた羽賀親子の口数が減り、兵庫の案内を背後から聞き、京橋の通りを抜け、日本橋を渡った。室町の通りを北へ本町通りまで進み、東の両国橋へと道を変えた。そして両国の広小路に出た。
「大川を渡る前に、屋敷との連絡場所を定めることにします」
兵庫はそう云い、神田川を柳橋で渡り、船宿浮橋に入った。
「碁四郎さん話がある」
「分かりました。皆さん、上がってください」
兵庫、羽賀親子は直ぐに上がったが小者の惣吉は控えていた。
「惣吉さん、ここがあなたの今日明日の控え場所に成ります。遠慮せずに上がってください」
この日の朝方は寒さを感じるほど冷え込んだが、陽が昇るに連れて気温が上がり、歩き続けた者たちは、少なからず汗を掻いた。
そこに白玉入りの“ひゃっこい”が運ばれて、皆を喜ばせた。
喉を湿らせた兵庫が、
「山中碁四郎さんは旗本のはみ出し者で、喧嘩の強さだけでここの主に収まっています。剣術は私と互角です。流儀は霞塵流三代目です」と紹介を済ませると皆もひゃっこいを飲み干した。
「碁四郎さん、こちらが羽賀登殿、ご子息の肇殿それと惣吉さんです。惣吉さんは浮橋に詰めて頂き、屋敷との連絡をとってもらいますので、飯、寝床は云うまでもなく笠から草鞋まで一切の面倒を頼みます」
「分かりました。惣吉さん、何もしないでこの喧騒の中に居るのは結構辛いものですから、仕事をお願いします」
「そうして頂くと居場所が決まりますので助かります。仕事は何でしょうか」
「歩き始めた倅・まん丸の世話です。川に落ちないように、車に轢かれないように、火傷をさせないように、野犬と喧嘩をさせないようにです。打撲・すりむく程度の怪我は気にしないでください。もう一通りの痛い目は経験していますので心配何のですが、今日は十六夜(いざよい)の月見客が多く船頭衆が出払いますので、目が足らなくなりますので」
「子守は少し経験が御座いますので、なんとか果たせそうです」
「それではこれから養育所に行き食事にします。惣吉さんはそこで用件を聞くなり預かりして、屋敷との行き来をしてください」
「兵さん、廃嫡者はどうしている」と碁四郎が兵庫の真意を測りかね尋ねた。
廃嫡者とは羽賀保の片手を斬り落とした逸見与八郎のことで、その与八郎が居る押上に羽賀親子を連れて行くのは、事を好むのそしりを受けかねないからだった。
「私が戻るのを待って居ます。合わせるつもりです」
「それは英断ですね」
「それは分かりませんが、噓が下手なので出来るだけ真実に向き合うことにしているだけです」

 浮橋を出ると、早速羽賀肇が、
「廃嫡者とは誰の事ですか。差し支えなければ・・・」
「先ず、保殿の無念が形だけでも晴れるまでは、諍いは起こさないとお約束ください。私がこの件に関わったのはこのご時世、幕府のために働こうとする町人の願いを聞き入れたからです。余計な諍いを起こされては町人たちの願いが遠のくのです。私の役目は今日明日の内には終わりますので、その後のことは武士の意地といった、私には無用のものが駆り立てるのでしょうから止は致しませんが、ただ、尋常の勝負では皆様方に勝ち目はまず在りません」
「相手はそんなに強いのか」
「養育所で預かっているのは保殿に襲われ、その片腕を斬り落とした者です。ただこの者は再度他の者に襲われることを危惧し、嫡男のまま路頭に伏してはお家に申し訳ないと、自ら廃嫡願を親に申し出、他にも訳があったのか受け入れられ、既に上司に届けられて居るとのことです」
「鐘巻殿がそのものを預かったのは何故のこと」
「その者剣術に目覚めたのです。廃嫡者が生きて行く道は険しいのです。敢えてその道を選んだ者に、後顧の憂いを抱える皆さんが真剣勝負を挑むのですか。もし勝ったにしても敵討ちなどと云った美名は認められず罪は免れませんよ」
「分かった、我らもそれほど愚かではない。一幕が下りるまでは決して諍いは起こさぬ」

 ←ボタンを押す。情けは人のためならず

Posted on 2016/10/13 Thu. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学