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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その30)】 

 中川家の者たちが母屋の中に姿を消したところで、兵庫が
「地蔵は何処ですか」とお庭番頭の仁吉に尋ねた。
「表門から十間ほど入った東の木立の間です。ご案内いたします」
曲がりくねってはいるが表門から裏門に抜ける道が在り、その道の道幅が広げられた所に薄汚れた地蔵が据えられていた。
地蔵の脇には新しい柱が建てられ、“延命・子育て地蔵”と記されていた。
他に近寄らないと読めない大きさの字で書かれた立札があった。それには、
“この地蔵は当屋敷の庭より、延命及び子育てと書かれた木片と共に掘り出されたものであり、改めて“延命・“子育て”地蔵として祭るものなり“と書かれていた。
 しかし、地蔵の実態は仲間の辰五郎が作って居た物で何の由緒もないのだが、ここに地蔵を据えたのは、苦境から抜け出すために神頼みしか手段の無い弱い者を探し、支援する狙いが在った。

「仁吉さん、朝五つ(8時)から夕七つ(4時)までの間、表門を開けお参りが出来るようにして下さい。出来れば明日から」
「夕七つまでなら少し間がありますが、皆が揃っていますので今日からでも開けられますが」
「それでしたら、開けて下さい。この屋の主に言っておきます」
「分かりました」

 母屋の玄関で板木を二度叩くと雅代が出てきた。
「奥さん、朝五つから夕七つまで表門を開け、地蔵の御参りを許します。今から開けさせますので、町との交流をして下さい」
「分かりました」

 開けられた表門から兵庫が出て行くと、押上から駒形に向かう子供たちがやって来た。
「兄上、お帰りなさい。彦四郎様が・・・」と心配そうな顔を見せた。
「ああ、また斬られ、軽いけがをしました。お見舞いして帰りなさい」
子供たちは表門から入って行った。
それを門前で履物屋を営む店の親父が見聞(みき)きしていた。
「“斬られ彦四郎”さんが、また斬られたのですか」
「軽傷です。心配しないで下さい。それより朝五つより夕七つまで表門を開けます。地蔵が祭られていますので、そこまでは出入りして結構です。また、中川さんは元南町奉行所の同心ですから、困ったことが生じたら相談して下さい」
「分かりました。町の皆さんに伝えにいってきます」

 兵庫等が押上に戻った後、京橋銀座で起きた事件が留守をしていた主だった者に伝えられ、それを聞かされた者から、彦四郎殿は運の強いお方ですねと反応が在った。
「先生、中川屋敷の地蔵のご利益に、“強運とか招運”を加えたら如何ですか」
と常吉が云った。
「それはよします。一六勝負に運を掛けるやくざ者のお参りが多くなりそうなので」
「違いね~。暫くするとお守りにすると地蔵が削られ糠味噌の重石になってしまいますよ」
笑いが起こり、話が終わった。

 その夜の寝床で、志津が
「旦那様、宮古屋事件で遺体を検分した宮古屋の下働きの者が夜警番の浪人二人が居ないことを証言したのに、その内の一人とは一度も顔を合わせたことが無かったのですよね。会ったことも無いのにどうして二人居たと証言したのでしょうか」
「二人居たことは事実でこれを知って居たのは宮古屋の主など少人数だったのでしょうね。小者が、何となく二人いると感じたのは、何事にも二人分用意させられたからかもしれません。また二人が話す声を聞いたのか・・・」
 兵庫等が眠りに着こうとして居る頃、萬屋弥一は太白に描かせた“斬られ彦四郎”の下絵の修正版を彫師に掘らせ、更に摺師に持ち込んでいた。
「一枚でも多く摺ってくれ」と頼み込み、摺師たちも応えていた。

 嘉永六年九月二日(1853-10-4)が明け、兵庫にとっては平常の日が始まって居た。
しかし、時が経ち朝五つの鐘が鳴ると、中之郷元町の中川屋敷の表門が開けられた。
それを待って居た中之郷の者が屋敷内に入っていき、暫くすると地蔵見物かお参りを済ませ戻って来たが、門外に出ずに屋敷内に留まる者が居た。
その者が手にしていたのが、また斬られた“斬られ彦四郎”浮世絵絵だった。
それは昨晩から徹夜で弥一らが刷り上げたもので、手分けして売りさばいたのだ。
 表の騒々しさがその訳と共に屋内にも伝わった。
訳とは、“斬られ彦四郎”に会いたいという素朴な願いだった。
そして、彦四郎はこれに応じたのだ。
表門が開き、庭内に地蔵が置かれたことで、特に出入りの訳を云う必要は無くなった。
そして、家の主や同居人が顔を見せたことで隔離されていた武家屋敷が町人町に溶け込み始めた。
「仁吉さん」と彦四郎が声を上げた。
飛んできた仁吉に
「裏門も開け、瓦町の皆さんにも入れるようにして下さい」
「通り抜けさせても構いませんね」
「構いません。もし都合の悪いところが在れば、垣根や木戸を作って下さい」

 なかなか門を開けようとしなかった彦四郎だったが、兵庫が表門を開けさせたことで、彦四郎は屋敷の留守居役として初めて裏門も開けるという大きな決断を下した。
大きな決断とは、安全上の問題ではなく、侍屋敷としての威厳を捨てることだった。
昨日、一昨日と刃の下に身を置いた、命を捨てるという経験が彦四郎を成長させていたのだ。
庭に出来た通り道から聞こえてくる話声を聞く中川彦四郎の顔は満たされた様子で、心身共に斬られ彦四郎に生まれ変わっていた。

第九十四話 斬られ彦四郎 完
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Posted on 2017/03/02 Thu. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その29)】 

 腹の縫合が終わり包帯を巻かれている五百旗頭(いおきべ)に、彦四郎が、
「おいお隣の五百旗頭さんよ。何故、逃げずにわしを狙ったのだ」と、尋ねた。
「それも考えたが、追手が掛かって居ないようなので逃げるのを止めたのだ。そうした中、宮古屋事件で奉行所の者が一人、中川彦四郎と云う同心が大怪我を負ったが生き残った話を聞き、怪我人を冥途に送り憂さ晴らしと小銭を頂こうと思い、お主の屋敷を見に行ったら別人が入って居たよ。事件から一月が経ち、事件のことも忘れられ始めた頃、浅草の方から斬られ彦四郎の噂が広がって来た。浅草にあんたを探しに行ったら、薬屋に“斬られ彦四郎”の浮世絵が貼られて居るのを見た。そこで斬られ彦四郎さんは何処に住んでいると聞いたが教えては貰えず、代わりに近々、京橋銀座に浮世絵を売りに行くと云う話を聞き来るのを待って居たのだ。英雄豪傑でも迎えるかのような様子を見て、意地でも斬ろうと待って居たのだ。あとは分かるだろう」
「その意地を通せば私を斬れたものを・・・」
「どういう事だ、意地は通したつもりだが」
「北村殿と医者を殺したろう。それが無駄な寄り道だった。橋の上で襲われた時、私は殺されると覚悟をしたのに、お主が刀を抜くのに手間取ったのは血刀を鞘に納めたからだよ。お蔭で私は命拾いしたわけだ」
「それは双子の弱点を隠す必要が在ったからだが・・・」と云いかけたところで、
「はい、一丁上がり。中田さん戸板に乗せ運んでもいいですよ」と医者の新上がいった。
「分かった。運ぶ前に、ここで少し話を聞いておきたい。先ず、先ほどまで話していた双子の弱点を隠す必要とは何ですか」と中田が尋ねた。
「死んだ弟と同じ姿では“斬られ彦四郎”に近づけないだろう。変装する必要が在ったのだ。しかし、金も使い果たしていたので医者に押し込むのを選んだのよ。奪った金を大枚使い大身の武家に化けたのだが、ばれてしまっていたようだ」
「鐘巻殿、どうして判ったのですか」と中田
「根津甚八郎さん教えてあげなさい」
「それは・・大身の侍は橋のたもとなどで人待ちはせぬ者です。待つのではなく気の利いた料理屋に呼び出せばよいのです。ですから違和感を覚えたのです」
「根津殿は大身の旗本の倅か」
「いいえ、呼び出される方です」
笑いが起こった。
「五百旗頭さん、これから伝馬町の牢暮らしに成りますが、生きて出られるとは思わないで下さい。聞かれたことには素直に応えて下さい」と同心の中田。
「ああ、それにしても、この腹の痛み、中川さんよく耐えられたな」
「私の場合は安静にして居られたからな。だが、あんたの場合はそうはいかぬ。中田さんの云うように素直に応え楽にしてもらう事だ」
「聞かれそうなことは分かって居る。金で結ばれた悪党同士、賑やかに三途の川を渡らして貰うよ」
 暫くして、彦四郎の傷の手当ても終わった。
刃を切り結び傷つけあった彦四郎と五百旗頭だが、憎み合うことは無く別れの挨拶を交わした。
何事も受け入れることにした五百旗頭は戸板に乗せてではなく、自身番の中で窮屈な唐丸籠に押し込められ、番士に警護され自身番の外に出ていった。
「中田さん、話が有る」と出て行こうとするのを彦四郎が止めた。
「何ですか」
「亡くなった北村殿の遺族が困って居るようだったら、力を貸したいので屋敷に来るように言って下さい」
「分かった。それでは行ってくる」
中田が外に出ると、唐丸籠が担がれ伝馬町へ運ばれていった。

 自身番前に辻籠がやって来て、籠を下ろし、駕籠かきが中を覗いた。
怪我をした彦四郎が外に出て行くと、自身番を見張って居た小僧が散って行った。
彦四郎が乗った駕籠が銀座通りに出て行くと、両側の店から出て来ていた主以下店の者が、頭を下げ見送った。
新しい刀傷を加えた“斬られ彦四郎”はしばらくやって来ることは無い。
通りの者にとってはたったの二日のことだったが強烈な印象を残した“斬られ彦四郎”だった。

 彦四郎が襲われ軽傷を負ったことは先に中之郷の屋敷に戻った弥一により駒形、押上の養育所にも伝えられていた。
また弥一は絵師の大神田太白に己の腹を見せながら、彦四郎が負った傷の説明をし、版下の修正を至急するように頼んだ。
 そうした中、彦四郎等が戻って来た。
駕籠から降りた彦四郎が一人で歩き始めたのを見て、迎えに出た妻の雅代が胸をなでおろした。
「奥様、彦四郎殿に怪我をさせ申し訳ございませんでした。相手は重傷を負わされたうえ牢に運ばれました。十二分に働いて頂きましたのでこの屋敷で養生させてください」
「お世話を掛けました」

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Posted on 2017/03/01 Wed. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その28)】 

 三五郎が見張る武家が橋向こうに居ることは碁四郎にだけ知らされた。
碁四郎だけに絞ったのは、不確かな情報を全員に流すことで、その情報に集中され、忍び寄る刺客の動きを見逃してしまうことを恐れたためだった。
 先頭を歩く彦四郎が京橋の南詰までやってくると、北詰で川面を見ていた編み笠の武家が動き始めた。
そして彦四郎が京橋を渡り始めたところで、碁四郎は彦四郎の後ろから
「編み笠の立派な武家が来ます。二間ほど詰まった所で口笛が吹かれますが、抜くのは相手の動きを見てからにして下さい」
「分かった」

 太鼓橋の向こう側からやって来る編み笠が見え、胸、腰と全体像が現れた。
確かに立派な武家で、とても刺客とは思えなかった。
それが、彦四郎に抜刀する気構えを萎えさせていた。
早い者勝ちの間合いに詰まろうとした時、三五郎が口笛を吹いた。
この口笛で動いたのは彦四郎ではなく、編み笠の武家が刀に手を掛けたが、抜刀に手惑い彦四郎に斬りかかった。
刀を抜くのを躊躇っていた彦四郎だが、その分、用心に怠りなく、編み笠武家の抜き打ちは彦四郎の腹の辺りを浅く斬り流れた。その流れた刀が再び彦四郎に振り下ろされようとした時、彦四郎が抜刀した刀が、同じように相手の腹を裂いていた。しかし相手の傷は深かった。
「それまで」と碁四郎が叫ぶと彦四郎は一刀に血振りを加えたうえで己の袴の裾で刀の血を拭い鞘に納めた。
一方、相手の武家は倒れるのを必死にこらえていた。
「お武家を自身番まで運べ」兵庫が叫んだ。
あっという間に、常吉、乙次郎、三五郎、弥一が取り付き持ち上げると自身番へと走っていった。
残された刀を兵庫が拾い上げ見た。
「彦四郎さん運が良かったですよ。この刀を見て下さい」
鼻先に突き出された刀の刀身には古い血のこわばりが在った。
「それで抜くのが遅れたのですね」
刀の血糊が鞘にへばりつき抜刀を妨げたのだ。
「また、北村殿に助けられましたね」
「そうですね。もし北村殿のご家族が困るようなことが在ったら、お返しを致さねばなりませんね。それにしても、よくあの者が刺客だと気が付きましたね」
「それは甚八郎の手柄ですよ」
「たまたまのことですよ。ところで、あの侍の顔を見ましたか」
「編み笠の内側まで見ては失礼と思い・・・」
「あの侍、恐らく五百旗頭伝十郎と双子だと思いますよ。そっくりでした」
「なるほど、二人で一人の伝十郎を演じたので、一人の手配書しか出来なかった訳ですか」
「自身番へ確かめに行きましょう」
兵庫と甚八郎が彦四郎に肩を貸し、碁四郎が挟み箱を担ぎ、矢五郎が残された抜き身を下げ足早に歩き始めた。

 自身番に着くと腹を裂かれた侍に医者が縫合を施していた。そして編み笠を取った侍の顔は甚八郎が言った通り、五百旗頭伝十郎そのものだった。
駆けつけていた奉行所同心の中田菊一が呆れたように
「こいつらは二人で一つの名を使って居やがった。新上先生、調べが終わるまでは生かさせてくれよ」
「人は腹の肉を切ったぐらいでは死なねえように出来ている。わしのことを死神と呼ぶ者が居るが、そのわしでもこいつは殺せないよ」
「先生、そいつに腹を斬られた者がここに居る。急いでくれ」
医者が声を掛けた彦四郎を見た。
「なんだ、あんたか、もたねぇと思って居たがよく助かったな」
「手当てをして下さったのは先生でしたか、遅ればせながら有り難うございました」
「いいってことよ、お蔭で縫うのが上手くなった。何方か次のお方を寝かせて着ているものを脱がせ、傷口を晒して置いて下さい」
こうして腹を出した侍が広くもない自身番に並んで寝かされた。
 彦四郎の腹の傷から滲み出る血を見ていた弥一が、
「先生、申し訳ありませんが、太白先生にお願いする用事が出来ましたので、戻っても宜しいでしょうか」
「“斬られ彦四郎”の傷を一つ増やして貰うのですか」
「はい、また斬られた“斬られ彦四郎”で如何でしょうか」
「それは構わぬが“またまた斬られた”に成りたくないので手伝いは出来ませんよ」
と、彦四郎が代わりに応えた。
「それは残念ですが、欲張らずに一枚二十五文いや三十二文と蕎麦代二杯にしますので手伝いが無くても売れるでしょう」
「それでは挟み箱を持ち帰って下さい」
「待ってくれ、私物を出します」と碁四郎。
碁四郎が担ぎ棒から同田貫を外し、納められていた袴、羽織を身に着け終わると、弥一は挟み箱を担ぎ自身番を出ていった。

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Posted on 2017/02/28 Tue. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その27)】 

 新肴町は京橋銀座の通りから西に二本入った通りに在る。
銀座通りの賑わいを離れた一行は直ぐに新肴町に“ちどりあし”の暖簾を出す飯屋に入った。
彦四郎が推測したように飯時を過ぎ、店内の板の間に客の姿は無く、土間の奥から小奇麗に装った女が顔を見せた。
「中川様、暫く顔を見せないと・・・どうしたんだい怪我をしているじゃないかい」
「おてるさん、面目ない、斬られてしまいましたが傷は塞がりましたので心配しないで下さい。みんなに蕎麦を出して下さい」
「はい、皆さま、お上がりください」
おてるは客の頭数を数えて奥に消えていった。
板の間に上がった八人と床に座るのが辛い彦四郎は土間に床几を置き、座り向かい合った。
「碁四郎さん、彦四郎さんを一人で歩かせないために、弥一さんの代わりに挟み箱を担いで護衛も兼ねて貰えませんか」
「いいですよ」と兵庫の頼みを一つ返事で引き受けた。
 このようなことを頼む侍とそれを簡単に引き受ける侍、兵庫と碁四郎が当時の尺度では測れない存在であることを理解していない者たちを驚かせた。
碁四郎はその場で羽織と袴を脱ぎ、これから担ぐことに成る挟み箱に仕舞った。
「長いのが入りませんが、差してはまずいでしょうね」
「どこの奴(やっこ)さんが同田貫を差しますか。担ぎ棒に括り付け、いつでも抜けるようにしたら如何ですか」
「そうしましょう」

 あと、これと言った話は無く、蕎麦を食い終ると九人は“ちどりあし”を出ていった。
一行が京橋銀座通りに出てきたところで
「中川さん、どこで油を売っていたのですか」と南町奉行所同心の中田菊一が声を掛けてきた。
「“ちどりあし”で小腹を満たしていたのだが、何か在りましたか」
「五百旗頭(いおきべ)が兄と呼ぶ者が居たそうだ。だが誰もその姿を見た者が見付からなかった。それだけだが、気に成ったので・・」
「兄が居ましたか。弟を斬ったのは私ではなく奉行所の調でも北村殿になっていると聞きました。狙うとすれば私ではなく北村殿に成りませんか」
「なるほど、北村殿が斬ったのは事実だが、それを兄が知れば護衛のついている中川さんより北村殿を狙うだろうな」
「ところで北村殿の傷は?」
「大した傷ではなかったようだが、大事を取って木挽町の医者に運ばれたよ」
「その程度の傷で済んで良かったです。色々と有り難うございました。それでは屋敷に戻ります」

 彦四郎を先頭に挟み箱を担いだ碁四郎が京橋に向かって歩き出し、それに五間ほどの間を取り兵庫等が歩き始めた時、
「中田の旦那、北村と云う侍が木挽町の医者の家で医者ともども殺されていました」
「何、五百旗頭の兄が動き出したのかもしれぬな」と言い残し木挽町への道へと駆け去って行った。
見送った兵庫が
「常吉さん、碁四郎さんに、今聞いたことを伝えておいて下さい」
「はい」
「矢五郎殿、何かが起きても無暗に飛び出さないで下さいね。同士討ちに成りかねませんので」
「役に立たぬか」
「いいえ、役に立って頂きますのでお願いします」
「何をすればよいのだ」
「彦四郎さんが左から襲われにくくするため、供連れの武家として、乙次郎さんと彦四郎さんの左一間を歩いて下さい」
こうして、彦四郎の左側に防御の壁をつくった。

「甚八郎と三五郎、ここに来なさい」
やって来た甚八郎が、
「何でしょうか、先生」
「刺客の顔を想像してみなさい」
「誰も見ていない顔をですか」
「そうだが、弟の仇を討った兄なら、血は繫がっているのではないか」
「分かりました。五百旗頭の特徴は“眉太いが目は細くつり目、下顎張り出しあり”でした」 
「分かったら、これから橋を渡り切って、戻って来なさい。もし不審な者が居ても手出しはしないように、先ず、甚八郎が行って来なさい」
「はい」と甚八郎が足早に人込みの中に紛れていった。
そして戻って来た。
「どうでしたか」
「不審なものは見当たりませんでしたが、橋を渡り切った堀縁に笠を被り川面を見ている、身なりの良い武家が居ました」
「三五郎、その武家がまだ居たら見張り、やって来る彦四郎さんに二間ほどに近づいたら危険を知らせる口笛を吹きなさい。居なかったら戻って来なさい」
「分かりました」と橋に向かった三五郎は戻って来なかった

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Posted on 2017/02/27 Mon. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その26)】 

 一行は何の障害もなく京橋を渡った。
彦四郎の歩みに従い、“斬られ彦四郎だ”の囁きが追っていった。
彦四郎が次に行く両替商は十二会会員の高砂屋のはずだが、店の前を素通りした。これに一番衝撃を受けたのは出迎える支度を済ませていた高砂屋の主だったが他の両替商も異変に気付きどこに行くのか行方を追っていた。
その行方は事件後店を閉めている元宮古屋だった。
彦四郎が手を合わせると、警護の者も手を合わせた。
お参りを済ませた所に、岡っ引きの三平がやって来た。
「中川様、昨日の仏ですがやはり五百旗頭(いおきべ)伝十郎だったそうです。中田の旦那からの言伝です」
「中田さんは?」
「五百旗頭の亡骸を引き取る者が出てきたので話を聞いています」
「昨日事件を起こした者が五百旗頭と知りながら、もう引き取らせてしまうのですか」
「その辺の事情は分かりません。昨日の事件はこの辺の噂とは違い、五百旗頭は北村様に斬りかり、手傷を負わせたものの討ち取られたことに成って居ます。中川様の名は何処にも出ていないそうです。どうやら今回も死人に口なしで済ませるのではありませんか」
「分かりました。中田さんに何か気に成ることを引き取り人から聞いたら教えて欲しいと告げて下さい」
「分かりました」と三平は去って行った。

 彦四郎が次に入った両替商はやはり高砂屋だった。目の前を素通りされ落胆していた主の金兵衛は喜びを隠さなかった。
 部屋に通された彦四郎が
「正座すると斬られた左足が痛むのです。無礼を致しますが、床几を使わせて頂きます」
「どうぞお楽にして下さい」   
そしてこれまでと同じように四十枚の“斬られ彦四郎”の浮世絵を売り、兵庫が痛々しく写生された“斬られ彦四郎”の掛け軸を見せ儀式は終わった。
 店を出て行く彦四郎等を主の金兵衛は暖簾の外まで出て見送った。
だが彦四郎等が店先を離れていっても金兵衛は店の中に戻ろうとはしなかった。
この様子と似た光景が多くの十二会会員の両替商の店先でも見られ、彦四郎が鳴海屋の暖簾を潜るまで見続けていた。
 彦四郎が欠員と成った十二会会員に選んだ鳴海屋の主人・鶴次郎は控えめな男だった。
彦四郎が
「高いですが十枚で一分、四十枚までお分けできます」と告げたが
「それでは三十枚を一両で買わせてください」と四十枚分の金・一両を払いながら三十枚でと変な遠慮をして見せた。
「分かりました、小判ではなく一分銀でお支払い下さい」
そして三十枚の浮世絵と一分銀四枚とが交換された。
彦四郎は銀三枚を巾着に入れ一枚を残して
「鶴次郎殿、本日、宮古屋にお参りに参りましたが、少々店先が荒れていました。この一分で次の主が入るか、四十九日が明けるまで掃除をさせて貰えませんか」
彦四郎の言葉で初めて鶴次郎が緊張を解き
「有り難うございます。“斬られ彦四郎”様の頼みと成れば誰も後ろ指はささないでしょう。喜んで」

 すべての用を済ませ、鳴海屋を出た彦四郎に男が跪いた。
「中川様、残りの浮世絵全てを京橋銀座の両替商で買い上げさせてください。待つ身の辛さ。仕事に気が入りませんのでお願いします」と頭を下げた。
「仕事に迷惑を掛けていましたか。それは済みませんでした。ただ構いませんが残って居る数が多いですよ。確か未だ、四百三十枚も在ります。更に売値は十枚で一分ですから総額で十両三分に成ってしまいますよ」
「用意した金で払えますので、お願いします」
困った彦四郎が兵庫を見た。
兵庫は頷いて見せた。
「弥一さん、出して下さい」
云われるままに弥一が桐箱を出すと
「その桐箱を入れて十一両にしましょう」と金を出して見せた。
こうして持って来た売り物の“斬られ彦四郎”の浮世絵は売り切ってしまった。
「時間は在りますが戻る以外に何か手が在りますか」と彦四郎
「折角ですから、彦四郎さん一人で歩いて帰って下さい。護衛は少し離れて見守ることにします」
「しかし、兵さん、それではちょいと心配ではないですか」
「それでは、策を練り直そう。立ち話も通行の邪魔です。彦四郎さん、顔の利くところで九人が休める所は在りませんか」
「顔が利くというほどではありませんが、新肴町の馴染みの飯屋なら今は空いているでしょうから行きますか」
小腹が空いた男たちが歩き始めた。

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Posted on 2017/02/26 Sun. 04:01 [edit]

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