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洗心湯屋

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【鐘巻兵庫 第二話 井の中の蛙(その19)】 

 兵庫は刀を取り、そこに木刀を戻すと、その場に座り下げ緒の襷を外し、床に置いた刀を引き寄せ、栗形に緋の下げ緒を通し一束に結ぶと立ち上がった。
門弟達の名札が掛けられたところへ進み、手を伸ばそうとした時、背後から
「鐘巻、その名札はそのままにしておいてくれ。わしはお主のその名札を見て、今日のことを忘れずに修行したいのだ」
兵庫が振り返ると、桃井が笑っていた。
兵庫も笑いを返した。

 士学館を後にした兵庫には桃井に抱いていたわだかまりが消えていた。
よい餞を貰ったとあらためて思う兵庫であった。
そして、桃井も兵庫に与えた餞以上のものを得ていた。
それは、後年のことだが、痛めて不自由になった右親指を門弟に見せながら
「この親指が潰されなかったら、わしの名を高め“位の桃井”と呼ばれる事もなく、左片手上段を磨くことも出来なかったろう。皆も己の足らぬ所を知り、足らぬを埋める手立てを見出す事じゃ」
と兵庫との一番を語ったという。

 兵庫が士学館から屋敷の己の部屋に戻り、することもなく横になり日が暮れるのを待っていると、母が麻の裃を持って来た。
送り火の儀式は、迎え火の時とはほぼ逆の流れで滞りなく行われ、終わった。
部屋に戻った兵庫は着替えると、屋敷に来たとき入った裏木戸から出て行った。
暫らくして母の初代が兵庫の部屋に来て見たものは、きちんと畳まれ、置かれていた麻の裃だけだった。
「あの子ったら・・」
声にもならない声で呟いた。
話を聞いた多聞は
「そうかい、広い世界に出た兵庫には、やはりこの屋敷は狭すぎるのだよ」
「渡したかったのに、お金も持たずに行ってしまいました」
「兵庫はそういう男だ。金にしがみつく我等ではこの屋敷は捨てられぬ。兵庫は金に縛られぬゆえ広い世に飛び出せたのさ。兵庫にとってはわし等も、医者も皆“井の中の蛙”に見えたことだろうよ」
母の心配を知ってか知らずか、兵庫は中仙道を歩いていた。
送り火の時には低い雲に邪魔され出ていなかった十六夜(いざよい)の月が兵庫の背を未だ見ぬ未来に向かって押すように丸い光を放っていた。

第二話 井の中の蛙(完)

Posted on 2011/05/04 Wed. 05:55 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第二話 井の中の蛙(その18)】 

 父と兄が奉行所へ行くのを見送り、部屋に戻った兵庫は昼までじっとしていたが、昼飯を食べると外へ出た。
足は長年通っていた蜊河岸の鏡身明智流の士学館道場に向かっていた。
道場に近づくに従い激しく竹刀の打ち合わされる音が兵庫を懐かしさで包んでいた。
相川道場とはだいぶ違うなと思いながら、道場に上がると四代当主桃井春蔵が上座に座り稽古の様子を見ながら、声をかけていた。
兵庫は師に歩み寄り一間ほどまでに近づくと正座し
「先生、ご無沙汰を申しておりました。私、三(み)月ほど前、家を出、今は板橋にて生きる技を修行しております。なんとかその目途もつきましたので、今日はお暇(いとま)に参りました。これは滞っていましたものですので、お納め下さい」
いざり寄り懐から紙に包んだものを師の膝元に置いた。
「そうであったか、いま少し進めば免許であったのだが、致し方ないの」
「もったいないお言葉です。それでは失礼します」
去ろうとする兵庫の後ろ姿に向け、桃井が
「鐘巻待て、お主への餞(はなむけ)だ。最後の立会いを致そう」
その声で、竹刀の打ち合いが止み、門弟達が引き下がっていった。
兵庫は師の言葉に何か違和感を覚えたのだが、申し出を受けないわけにはいかず、一礼し竹刀を取りに行くと、
「鐘巻、木刀にいたせ。その方が餞になろう」
師の桃井が愛用の枇杷(びわ)の木刀を握って道場の中央に進むのを見て、兵庫も仕方なく木刀掛まで歩み寄り、下げ緒を抜いて襷を掛けた。
木刀を一振り選び、そこに己の刀を掛けると、桃井が待っている道場中央へ向かった。
「遠慮は要らぬ。わしも遠慮はせぬからな」
兵庫は沈黙のまま桃井とかなりの間をとって一礼し木刀を正眼に構えた。
桃井も正眼に構え、双方が間合いを詰め始めた。
 兵庫は桃井より五歳若く、桃井が十七歳で四代を継いだ時には既にこの道場で稽古を始めており、桃井はずっと兵庫の成長を見続けてきていた。
兵庫の剣技の進みは目覚しく、最近では桃井も容易には勝ちを得られなくなっていた。
長い修行を共にしてきたのだが、何故か二人の間には見えないわだかまりがあった。
それは若い二人の切磋琢磨の間に生まれてきたものであり、容易に消え去るものではなかった。
おそらく、桃井が木刀勝負を挑んだのはこのわだかまりを消し去りたかったのかもしれなかった。
 互いに手の内を知った同士、一瞬で決まる勝負の前の長い対峙が続いた。
兵庫は間合いを詰めては退きながら、桃井の一挙手一投足に気を配っていた。
それは桃井も同じであった。
兵庫がこの道場を去ってから三(み)月が過ぎていたが、桃井の技は伸びていないと感じた。
それに反し桃井は兵庫の間合いが急速に伸びたことを知りえなかった。
以前は桃井の間合いの中でしか戦えなかった兵庫であったが、その立場は逆転していた。
 それは一瞬であった。不用意に間を詰め、兵庫の間合いに入った桃井の右手親指を兵庫の木刀が打ち砕いていた。破れた皮膚から落ちる血のしずくが道場の床を濡らした。
「鐘巻、腕を上げたな」
「よき餞ありがとう御座いました」
互いに一礼し分かれたあと、静まり返っていた道場にざわめきが起き始めていた。

Posted on 2011/05/03 Tue. 05:46 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第二話 井の中の蛙(その17)】 

 翌日、父多聞に呼ばれ部屋に行くと、昨晩の顛末を語ってくれた。
善三の店を遠巻きにした後、善三が店に居る事をしらべ踏み込み客を含めて七人を捕縛。
他に五百両を越す金を押収した。
身に覚えがなくとも白状させられる奉行所の責めは過酷をきわめる。
それを知っている善三等は、身に覚えのあることは聞かれるままに白状したということであった。
「それで、善三の後ろには誰が居たのですか?」
兵庫は尋ねた。
「それが奥詰め医師、奥村岳泉の用人、高橋健吾が善三と儒庵を料理屋浜屋へ呼び出し、二十五両を半金として渡し頼んだそうじゃよ。浜屋の主もその高橋健吾と他に二人が来たことを認めておる」
「奥詰め医師ですか。父上はどこかで虎の尾を踏んだのでしょうか」
「そうかも知れぬな。高橋は支配違いで手が出せぬゆえ、今日にでもお奉行に言上し、後は目付けなり、医師支配の若年寄りがどのように動くか見物するだけじゃよ」
「とにかく残りの半金二十五両が善三に渡らなかったことは喜ばしいことでした」
兵庫がおどけて言った。
「それも五十両の仕事を僅か三両一分の棒引きで済まそうとした、金払いの悪いやつらの御蔭だな」
「金払いといえば、昨日駒形でどじょう鍋を食べたのですが、代金に使った百文の天保銭が駒形では八十文でしか通用しないと言われ、私はさらに二十文支払ったのです。もしあの時、支払わずに店を出たら、その分、時がずれ善三の店から出るとき父上を狙うという話は聞かれなかったのです。確かに金払いは大事ですね」
「そうか、そのようなことがあったのか。浪人に渡した一両一分、どじょう屋での二十文、兵庫お前の金遣いは生きておるな」
「父上、私は今宵ご先祖をお見送りしたら板橋へそのまま戻ります。ついてはいま少し金遣いの修行に励みたいので・・」
「分かった。あとで母から貰らいなさい」
傍らで笑みを見せている妻の初代を見て言った。
「あらあら、兵庫に上手に乗せられてしまいましたね」
「何を申すか命を助けてもらったのじゃ、兵庫、礼を言うぞ。そろそろ奉行所に参ろうか」
「それではお支度を」

Posted on 2011/05/02 Mon. 05:28 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第二話 井の中の蛙(その16)】 

兵庫は今日見聞きしたことを父多聞と兄兵馬に話した。
そして兄から玄沢が縛られ大川に放り込まれ殺されたことを知らされた。
善三が己を狙うと知った多聞の動き早かった。
「兵馬、口入れ屋の善三を召捕る。支度をさせろ。わしも直ぐ行く」
「はい」
兵馬は部屋を飛び出していった。
兵庫はおどけて言った。
「父上、こちらからわざわざ出向かなくとも、あちらからやって来ますよ」
「馬鹿を申せ。いつ襲われるか待つほどわしの気は長くはないわ。これでも江戸っ子だ」
兵庫は笑いながら
「母上をお呼びしますので暫しお待ち下さい」
妻初代の手伝いを得て身支度を済ませた多聞が、供の者を引き連れ屋敷を出て行く、その後姿を屋敷に残る者が見送った。
当主が襲われるかもしれないと知り、残された母や、兄嫁の不安は深かった。
「母上、姉上、心配なさらずとも、お役目を無事終え戻りますから」
「そうですよね」
応えてはみたが、二人の顔には心配の色が残ったままであった。
それを見て、兵庫は
「母上、姉上、もうすぐ昼です。たくさん握り飯をつくり奉行所へ運ばせたら如何ですか。腹が減っては・・と申しますから」
「あら、そうでした。捕り方衆のためにも、玉枝、おうめにお釜のご飯を全部握り飯にさせなさい。足らないようなら炊かせなさい。」
このあと鐘巻家の台所が忙しくなるのだが、兵庫はそれを見ることもなく部屋に戻っていった。

日が暮れ五つが過ぎ、四つの鐘が鳴っても主が戻らない。
兵庫の部屋へ近づく足跡がして、顔を見せた母が
「遅すぎます」
兵庫は立ち上がり、母と共に母屋へ行った。
「母上、姉上、父上や兄上が遅いのは無事の証ですよ。父を最初に襲ったのは浪人でしたが、襲わせたのは殺された医者です。町医者一人の遺恨ではこの様なことは出来ません。おそらく背後にまだ誰かがいるのです。父上はそれが誰か、捕らえた者から聞き出し、その者へ手を回しているのだと私は思っています」
「便りがないのがよい便りですか」
母がぽつりと言った。
「その通りです。よい例が、家を出たまま梨の礫だった私ですよ」
「そうでしたね」
「母上、姉上、皆腹を空かせて戻ります。座って心配なさるより湯漬けの支度でもさせ、家来衆を迎えてやって下さい」
そうこうしている内に、多聞が奉行所を出たとの先触れが届き、兵庫はやっと母の顔に笑みがこぼれるのを見ることができた。
 暫らくして戻った父多聞や兄兵馬の顔を見て、兵庫はまずまずの首尾だったことを感じ
「父上、兄上ご苦労様でした」
挨拶を済ませ部屋に戻った。
空高く昇った十五夜の光が軒の陰を開け放された縁側に落としていた。昼間の暑さが和らいだのか蚊帳の中に聞こえてくる秋の虫の鳴く音を聞きながら、兵庫は目を閉じた。

Posted on 2011/05/01 Sun. 06:17 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第二話 井の中の蛙(その15)】 

 兵庫は、財布は出さずに、首に掛け懐に入れてあった巾着を取り出し女中を見ると、笑顔を見せて兵庫の所までやってきた。
「百十であったな」
巾着から天保銭を一枚出し折敷の上に置き、続いて四文銭の銭差(ぜにさし)を取り出し、ひ~ふ~と数えながら二枚抜き取り並べ、あと二文と一文銭を二枚置き、
「これで百と十」
兵庫が巾着を懐にいれようとすると
「お侍さま、天保銭はここでは百でなく八十文で通用しています。あと二十文お願いします」
申し訳なさそうに頭を下げた。
「なんだ、この天保銭は小判に似ているが見掛け倒しか、それではあと二十文」
再び巾着の中から四文銭の差しを出し、五枚抜いて置いた。
その仕草をじっと見ていた若い女中
「お侍様、口入れ屋の善三さんは評判がよくないので、行くのなら他の口入れ屋にした方がいいと思います」
「そうですか、善三さんはお手当ての支払いをこの天保銭の額面どおり支払うのですか」
兵庫は折敷の上の天保銭を指しながら、おどけて言った。
「面白い、お侍様だ」
女中は勘定が乗せられた折敷を持つと行ってしまった。

 どじょう屋を出た兵庫が教えられたように行くと、善三の店は大川に面して暖簾を下ろしていた。
暖簾の真ん中に大きく“善”の字と脇には“男・女奉公人口入所”と“福屋善三”が藍色の地に柿色で染め抜かれていた。
兵庫は暖簾をくぐると、帳場の箱台の上に横長の大福帳の様なものを広げ、見ていた若い男が愛想よく
「いらっしゃいませ」
「ご主人は居られますか」
「只今、主人善三は取り込みがあり出払っており、いつ戻るかも分かりませんが・・」
「さようですか、それでは又後ほど」
兵庫は店の外へ出ようとした。
その時、暖簾の外から
「まったく、善三にはついていけねぇぜ」
兵庫と入れ替わりに、やくざ風の二人の男が入ってきた。
「兄貴のしけぇしに鐘巻とかをやるだとよ。医者とは違い相手が悪すぎるぜ」
暖簾の内側から、外に出た兵庫に聞こえてきた。
兵庫は善の暖簾を背にしながら中から聞こえてくる声に聞き耳を立てたが、それ以上聞き取ることは出来なかった。
善三の兄貴とは不忍池近くで刺し殺された医者の儒庵、だとすると“医者とは違い相手が悪すぎるぜ”はどういうことなのだ。
兵庫の頭には屋敷から居なくなった玄沢のことが浮かんだのだが、その時は玄沢が殺されたとは思いも付かなかった。
のんびりと江戸見物をするつもりだったのだが、父を狙う者がまた出てきたことを知り、足は大川沿いの道を、川下の両国橋を見ながら足早になっていった。
途中から蔵の立ち並ぶ通りに出、鳥越橋を渡り神田川まで進むと、その川沿いを昌平橋まで上り、橋を渡り日本橋の街中を通り抜け八丁堀の屋敷に戻ったのは昼少し前であった。

Posted on 2011/04/30 Sat. 05:35 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

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