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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第72話 剣術商売(その28)】 

 四月二十五日の夜明け前、押上の寮内に新築された五軒長屋。その一軒、東端、間口一間半の家の引き戸が開き、出て来た女が空を見上げ、そして中に戻った。
「お前さん、洗濯出来そうだから・・・」
「分かった。今日は何時でも洗える道着と腹掛け股引き半纏で過ごすから、洗い張りをするものを頼む」
昨晩、入居した常吉と仙夫妻の声が外に漏れ出していた。
そして間を置かず、もう一軒、間口三軒の戸が開き、やはり女が飛び出し、同じように空を見上げた。
そこに、お仙が洗濯物を抱え出て来た。
「お仙さん、お早うございます」
「およね様。お早うございます。溜まっていた物を洗わないと、雨の季節が来てしまいます」
「そうですね。我が家も子供が多いので晴れ間の在る間に急がないと・・。ところで、お仙さん、家を磨く糠袋在りますか」
「いいえ、急だったもので未だ、用意していません」
「余るほどありますので、差し上げます」
「助かります」

 外の声で寝床を抜け出した兵庫は道着に着替えると、母屋南面の雨戸を開けた後、山内、中西、水野の三家が出た東部屋の外廊下の雨戸も開けた。
そして、着替え場として使っていた部屋に置かれた剣術道具を廊下に出した。
今日から、着替え部屋を新しく出来た五軒長屋の道場側の一軒に移し、稽古希望者の着替えを容易にするためだった。
その移動は、寮内の裏長屋から出て来た男たちの手助けで、明け六つの鐘が鳴る頃には終わった。
 そして続々と朝稽古に参加する者がやって来た。
轟と田村がやって来たのは、少し遠いことも在り少し遅れたが、二人は、山中碁四郎に引き合わされ、そのとてつもない強さにもてあそばれた。
そして、駒形から奥村弥太郎に伴われた子供たちがやって来た。
新しく用意された着替え場で、剣術支度をした子供たちが出て来て、大人たちに向って行った。
そんな中、轟と田村は、奥村に引き合わされ、短い時間だったが、その技にはただただ敬服させられた。
 道場を見渡せば、そこは、大人たちが子供たちに稽古をつけていた。
そこに、子供三人がやって来た。
「中島百合之助」「佐野玉次郎」「服部隼太」
「お願いします」と二人の前で頭を下げた。
「一人は私が引き受けます。二人はお願いします」と水野粟吉が名乗り出た。
少々戸惑った轟と田村の二人だったが、見回せばまだ稽古支度を済ませた大人が何人か控えていて、朝稽古に子供たちが来れば相手をしようと待って居た。
稽古に来た子供たちは駒形から九人、寮内からは北島象二郎、近所の武家屋敷から三人の十三人で辰五郎や粟吉などまで出て対応していた。

 時が経つと駒形から来た子供たちは、稽古を止め母代りの志津に会い、短い触れ合いを済ませ、先頭に奥村、殿を乙次郎と仙吉に挟まれ戻って行った。
この後も稽古が続いたが、近所から来ていた子供たちが帰り、そして更に碁四郎も帰ると残るのは寮内で飯を食う者だけに成った。
男たちが朝飯前の稽古に没頭し始めると、茶店の方でも客を迎える支度が進み、以前から出されていた名物カラ寿司の幟の他に新しく出来た“なりひら”と染め抜いた暖簾が掛けられ、“めし”の幟が立てられた。

 剣術商売を始めたことで、その見物客で茶店は賑わい飯を出すようになり売り上げは飛躍的に伸びた。
一方、剣術の方の売り上げは浄財箱に投げ込まれる一文銭や四文銭で、それは日に二百文程度で、狙っていた二百文の個人稽古を願い出る者は分けあって来た臼井六郎ぐらいで、思惑は外れていた。
それでも、朝稽古に励む男たちの気合いが、やって来る五月雨の季節を前の曇り空に響き、寮の外へ飛び出し、今日も剣術見物が出来ることを知らせていた。

第七十二話 剣術商売 完

Posted on 2015/06/08 Mon. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第72話 剣術商売(その27)】 

 茶店に回ると、そこでは北島縫と花代親子とお仙が店番をしていた。
「皆さん、ご苦労様です。商いは如何でしたか」
「先程、御飯の方は売り切れてしまいました」
「それは結構でした。この繁盛が途切れないように、こちらの御二方、轟殿と田村殿のお力を借りることに成りました」
「先程、お強いお武家様がお二人加わったことは常吉さんから伺いました。私は北島縫、これは娘の花代、あちらは常吉さんの奥様のお仙様です。宜しくお願いします」
侍二人が無言のまま会釈した。
「あっ、辰五郎さんが・・。母上、私は戻ります。明日は染が参りますので」
「分かりました。早く戻りなさい、栄吉さんが待って居るよ」
 辰五郎は正面から入り、辰五郎家と栄吉家の夕食が詰められた包みをぶら下げやって来た。
「先生、旨い飯を食って居たら身体が重くなってきました。朝稽古したいのですが道具余って居ますか」
「売り物の鉢金などを使って下さい。こちらは、今日より道場のお手伝いを頂く、轟殿と田村殿です」
「鍛冶屋の辰五郎と申します。鐘巻先生と奥様に拾われ読み書き算盤を習い、棒手振りで身を立て鍛冶屋になり、今年はお武家のお嬢様を嫁に迎えられました。御利益のある先生ですよ」
「辰五郎さん、それは辰五郎さんの力ですよ。五月雨が降り始めたら、具足に力を注ぎますので、鉢金の方お願いします」
「任せて下さい。その時は栄吉さんにも手伝って貰うことに成って居ます」
辰五郎と栄吉の妻・花代は普門院脇の家に帰って行った。

 それを見送った轟が、
「田村、わしらにも運が巡って来るかもしれぬ。明日は早い、寝に戻ろう」
「そうして下さい。朝だけしか出来ない稽古相手が来ます。寝坊すると大損しますよ」
二人が宛がわれた下谷の長屋へ行くのを縫が見送りながら
「昼に来た時の御浪人があのように立派になって・・」
「ここにはそう努力させる女が多くいますから、荒んだ暮らし戻ることはないでしょう。剣術は強いのですから、ここで稽古をしていれば誰かの目に留まることも遠からず在るでしょう」
「鐘巻様は人様の面倒見が良いですね」
「最も有り触れた兵法は、先ず与えることですからね」
「与えることで得たものはなんですか」
「そうですね・・・一番大きいのは・・・妻の志津かも知れません。気が付いたら隣に居ました」
 兵庫は志津の弟・山中健次郎に剣術を教え、元主家への帰参を叶え、山名家を再興させた。山中家が浪々した訳の一端に志津の存在が在ったため、志津は兵庫に恩義を感じたのだ。
「良いお話ですね」
「私にとっては良い話ですが・・志津にとっても良い話にするには、まだまだです」
二人の話をしていると、寮内に女たちの声がして、お琴とお美代が千夏、小夜、お玉、お鶴と顔を出した。
「お縫様、お仙様、お待たせしました。店じまいは私どもでしておきますのでお食事を頂いて下さい」
「有難う御座います」

 店じまいが始まると、お琴が
「千夏、小夜、お玉とお鶴を連れ先生と散歩をしておいで」
子供たちだけの外出は許されていないため、兵庫との散歩は楽しみの一つだったのだ。
兵庫の後ろを千夏とお玉、小夜とお鶴が手をつなぎ歩いて行くと、前方から大八車を牽く黒い影が近づいてきた。
「あれは常吉さんだよ」と兵庫が教えた。
「常吉さんとお仙さんは今日から庭に出来た家で暮らすんだよ」
「常吉小父さんが来ると、おんもに連れて行って貰えるね」
「そうだね」
女の子たちは駒形に居る時、保安方の常吉に連れられ街中を歩いたことを思い出したのだ。
寮の広かった庭に家が建ち、道場が区画されると遊び場は減った。
兵庫は子供たちの期待を叶えてやろうと思った。
 この日の夜、庭に出来上がった長屋に、寮内の母屋から水野家が、外からは常吉・仙夫妻が入居した。

Posted on 2015/06/07 Sun. 04:01 [edit]

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janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第72話 剣術商売(その26)】 

 道場見物席の片付け、掃き清める仕事は兵庫以下居る者たちにより行われた。
それが終わるのを待って居たかのように夕飯を知らせる板木が打たれた。
手を洗いに行く男たちに、
「先生、配膳は皆さんでお願いします。外も夕食時で込んで居ますので」
「分かった」

 配膳と言っても、台所で一汁三菜が乗せられた折敷を受け取り、表の部屋まで運ぶだけだ。
兵庫を先頭に道場の者が客人の轟と田村を挟み並び、折敷を持った男たちが広間に入り座した。
「私の両脇に座るお方は、本日、試合して頂きました、こちらが轟殿、こちらが田村殿です。御客人ですが師範代並として稽古を通じて道場の手伝いをお願いします」
轟と田村が頭を下げた。
「轟さん、田村さん。ここに居る方々は剣術方以外に大工方の方々とその手伝いをお願いしています方々です」と名をあげ紹介した。
その紹介された建吉が、
「皆さん、五軒の建具を入れ終わりました。入居が決まっている水野家は今晩にも移るそうです。常吉さんも入る部屋を決め早めに移り、何か在りましたら知らせて下さい」
「あれ? 随分早いですね。数日後と聞いていたのですが」
「それは、水野家の方々が頑張ったからですよ」
「なるほど、今晩にでも大八を借り旅籠町の荷物をこちらに運びます」
「道場に近い部屋は空けて置いて下さい。着替え部屋にします」

 食べ始め暫くすると千夏がお鉢を持って部屋に入って来た。
「御代わりが入って居ます。済みませんが皆様で給仕をお願いします」
「茶店は混雑しているか」
「はい、御飯を食べる人が並んでいます。先生、もっと食べやすくしないと、とお仙様が仰っていました」
「分かった。彦次郎さんに作って貰うので暫く我慢して欲しいと伝えて下さい」
「先生、私に何を作れと」
「先日養生所に出かけた時、オランダ渡りの椅子と卓を見ました。卓は腰かけたまま食べられるように、座った者の鳩尾ほどの高さに出来ていた。あれなら女子が、男たちの様に縁台をまたがずに食べられる」
「先生、それなら日本橋のオランダ旅籠で見たことがありますので、作ってみます」
「お願いします。評判が良ければ、更に工夫を加え、一杯飯屋の土間に置けるようにすれば売れますよ」
「先生、剣術商売の次は指物商売ですかい」
「その前に、この飯を食べ終えましょう。後がつかえていますからね」
 夕食を食べ終えた男たちは、その折敷を台所に運び後を頼んだ。

 それから暫くして、多くの女子供が食事の為に広間に集まった。
そこに、兵庫に連れられた轟と田村が入り座った。
「皆さん。今日より道場の仕事のため、師範代並として加わって頂くことに成りました轟与三郎殿と田村栄助殿です。下谷坂本裏町から通って頂きますので宜しくお願いします」
兵庫が頭を下げたのを見て二人も下げた。
「轟様、田村様。鐘巻の妻・志津と申します。道場の仕事を良く引き受けてくれました。お礼を申します。私どもは朝昼晩の三食を作ることぐらいしか出来ませんが、みな子供たちの為ですので、宜しくお願いします」
と云い頭を下げると、他の女子供も頭を下げた。
ただ、これだけの事だったが、轟と田村にとって、は異世界の趣を味わされていた。
質素だが秩序だった様子、それが女・娘を美しくし、聞かされていた浮浪のだった娘が、この部屋に居るとは思えなかった。
それも在ったが、志津の美しさに物事を考えることを忘れさせられていたことも在った。
「それでは、外で店番している者に、挨拶してきます」
兵庫の声に我に返る思いで席を立った。

Posted on 2015/06/06 Sat. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第72話 剣術商売(その25)】 

 この日、兵庫は繁盛した。
轟と田村を送った後、道場に出て行くと、道場前列に、四人の若侍が防具を着け待って居るのが見えた。
「先生、あちらの方々が、先生に稽古をお望みです。既に御一方辺り二百文、四人分として八百文はお預かりしています」と兵庫が来るのを待って居た甚八郎が告げた
兵庫は頷き道場に出て、四人の前に行き、
「お待たせしました。鐘巻兵庫と申します。何方からでもどうぞ」
既に順番が決まって居たのだろう。
「中村千代之助お願いします」と名乗りを上げた。
兵庫が急ぎ面を被り対峙した。
「お願いします」と千代之助、兵庫もまた
「お願いします」と挨拶を交わし稽古が始まった
時の過ぎるのを測る線香が薄煙を上げ始めた。
先程の他流試合とは違い相手は動いたが、兵庫はその場に留まり向きを変えるだけで応じていたが、掛かって来ない。
暫く相手の動きを読んでいた兵庫が、相手が動こうとする方向に突っかけると、不意を突かれた様に相手は体勢を崩した。
兵庫は軽く面を打ち、飛び退いた。
「同じ動きを何度も繰り返しては動きを読まれてしまいます」と云い、向きを残って稽古を見ている三人に変え
「それと皆さん、見るのも勉強ですが、剣術で大事なことは同じ姿勢を続けたり、座り続けるのは、血の巡りを悪くし、後れを取ることに成ります。師範代でも私と同じことを教えられますから、お願いしたら如何ですか」と促した。
残って居た三人は、顔を見合わせていたが、頷くと
「臼井要、お願いします」
「斎藤恵三、お願いします」
「鏑木隆吉、お願いします」
 やって来た四人の中に、臼井と中村姓が在ることで、兵庫は、今朝番町の中村家に戻って行った臼井六郎を思い出した。
「番長から来たのか」と尋ねた。
「はい」

 四半刻の稽古が終わったところで、兵庫はやって来た訳を尋ねた。
「強く成りたいからです」と応えは簡単だった。
「それなら、近くの道場足繁く通う方が良いと思うが」
「ここには半年間の稽古で六郎さんを手古摺らせた子供が居たと伺いました。通うならこちらに足繁く通った方が良いと思います」
「理屈ですが、通えますか」
「御相談ですが、駒形の養育所に泊まれないでしょうか」
「養育所には弱い者が集まり助け合いながら、生きることを学んでいるのです。侍風を吹かすこと、脇差を差すことも駄目です。それと五月雨の季節になり、ここで稽古できる日も少なくなります。これらの事情を父上様と話し、お許しが出れば駒形の宿泊を許します」
「どうして、子供たちに剣術を教えるようになったのですか」
「養育所に居る子らは、冬の寒い中少ない食べ物を分けあって居たのです。皆、身体も弱く痩せて居ました。養育所を出る時が来ます。その時丈夫で、強い身体になって居なければ、いじめられてしまいます。良い物を食べ、走り、剣術をすることで皆、元気になりました」
四人は頷いていた。
「ところで、臼井六郎殿はこの寮の近くに居るのでしょ?」
「要、お見通しだ。教えてやったら」
「そのつもりでしたが、先生に子ども扱いされると言われ、兄上は・・置いてきました」
「その置いて来た兄上に、会える日が来ることを楽しみにしていると告げて下さい。それと次に来る時は二百文は要りませんからね。門限に遅れてはいけません。そろそろお帰り下さい」

 四人が帰ってからの道場に、これと言ったことは起こらなかったが、轟と田村そして常吉が戻って来た。
轟と田村は昼に試合をした時とは全く別人になって居た。
早速二人は見物客の前に立たされた。
「皆さん、この御二方は、昼に私どもと他流試合をした轟殿と田村殿です。怖い浪人さんから二枚目になって戻って参りました。非常に強いので客人として向かい入れることにしました。明日からは師範代並として稽古に参加して頂きます。また手合わせを望む方、お受けしますので腕試しにお越しください。本日は最後までご覧いただき有難う御座いました」
ここで稽古の終わりを知らせる拍子木が打たれ、見物客が帰って行った。

Posted on 2015/06/05 Fri. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学

【鐘巻兵庫 第72話 剣術商売(その24)】 

 兵庫の強さは師範代以上であることは、見ている者には分かったが、その差が何で生じるのか、分かるのはその速さだが、相手の甚八郎も同じように早い。
ただ、兵庫の竹刀は甚八郎を打つのに甚八郎の竹刀は弾かれ、躱されてしまう
その兵庫の技を見届けようと見物客の中の侍は凝視していた。
兵庫の甲高い、特徴ある気合いが響いた。
これは、これから攻めることを相手に告げるもので相手をしていた甚八郎が心なしか防御の構えを取った。
しかし、その守りが隙と言えば隙だった。
守りを高めれば攻めが弱まる。攻めの弱さは甚八の間合いを狭め、兵庫の間合いを伸ばした。
此れまででは届かなかった兵庫の竹刀が届き、籠手、面と立て続けに打ったのだ。
防御を高めた甚八郎だったが、これまでの稽古で届かなかった間合いからの攻撃に油断が在った。
「参りました」
「甚八郎、腕前が上がっているぞ」
「有難う御座います」

 面を外した兵庫が
「皆様、此れより鹿島新当流轟与三郎殿と当道場師範代高倉健四郎殿の試合を再開いたします。轟与三郎殿、高倉健四郎殿、お出会い下さい」
午前と同じ段取りを踏み試合が始まった。
そして午前と同じように暫く動きを止めていたが、口火を切ったのは高倉だった。
気合を掛け、竹刀の切っ先を上げ踏み込んだ。
その勢いに轟が竹刀を引き上げ面をかばう動きを見せたが、高倉の竹刀はその上げた籠手を打って居た。
「籠手一本」兵庫の声が上がった。
そして二本目も高倉が取った。
高倉と轟が引き下がりると
「小野派一刀流田村栄助殿、菅原文次郎殿、お出会い下さい」
この試合も、にらみ合いが暫く続いたが、始まると菅原が二本取るのに、時を要さなかった。
余りにもあっさりと終わった試合に、見物客不満の様子を見せた。
それを見て、兵庫が道場中央に進み出た。
「皆さん、轟殿並びに田村殿は決して弱くは在りません。御二方が負けたのは、私との試合の前に持てる技を披露する訳にはいかなかったのです。負けたのではなく勝たなかったと言った方が適切でしょう。御二方には暫く当道場への寄宿をお願いし、教えを請うつもりです」
これには、戦った相手を褒める兵庫に見物客から拍手喝さいが起こった。

 甚八郎に後を任せた兵庫は、轟と田村そして常吉を一旦着替え部屋に上げた。
「轟殿、田村殿。この寮は女が多く住んで居て、独り者の男は住めませんので、御二方には外から通って貰いたいのですが、今、どちらにお住まいでしょうか」
「聞いてくれるな」と頭を掻いた。
「分かりました。それでは空いている家が在りますので、そこで寝泊りをしてください。三食はここに用意しますので通って下さい。間もなく皐月、五月雨の季節ですので高下駄、傘など暮らし向きの品々は用意します。先ず、今身に付けている衣類は全て、此れから出す物に着替え直して下さい。今のままで、女子に嫌われますので」
「私も、好きに成ってくれとは言わぬが、せめて嫌われないようにしたいと常々思っていました」
笑いが起こった。
「常吉さん、御二方を下谷坂本裏町の庄兵衛店に連れて行って下さい」
「分かりました」
「それと、風呂屋と床屋にも」
「その辺の事は任せて下さい。銭は内藤さんに用立てて貰って構いませんね」
「結構です。七つまでには戻るようにして下さい。皆に会って貰いますので」
 轟と田村は用意された物に着替えると、常吉に案内され出て行った

Posted on 2015/06/04 Thu. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

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