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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第90話 不足(その2)】 

 養育所は明け六つの鐘の音で一斉に目覚めることに成って居るが、それ以前に動き出す者も居る。
その筆頭は河岸に仕入れに行く元新発田藩陪臣の倅・中西肝太郎であるが、養育所が営む十軒店で最初に暖簾を出すのは飯屋である。
飯屋を預かっているのはお美代だが、最近保安方の一人乙次郎と一緒に成り、養育所を出て亀戸に移っていた。
そのお美代が店を開けにやって来るのだが、戸締りされていて直接店には入れない。
やって来たお美代は、肝太郎が河岸に行く時に開けた養育所の玄関に成る表口から入り、店を開けた。
店が開くのを待って居たかのように明け六つの鐘が鳴り、養育所が目覚め始めた。
鐘の音は養育所の者だけではなく、町の者も起こし、暫くすると飯屋に客が入り始める。
朝一番で出せるものは基本的に昨日の残り物の冷や飯と温め直した汁、新香に佃煮少々にであるが、時には祝い事などで残った鯛めしなども出るから捨てたものではない。それより分腹いっぱい食っても二十四文と安い。早く来る客の大方は、腹ごしらえすると口入屋に行き、割のいい仕事を貰いその日の糧を稼ぐ真面目な者が多い。
その男たちを迎い入れ、「今日も頑張るんだよ」と送り出すお美代の声が聞かれるようになると、養育所内から気合と竹刀の音が聞こえてくる。

 養育所は鐘巻兵庫、山中碁四郎、内藤虎之助の三人がお上に願い出て開設したものである。
鐘巻兵庫は南町奉行所与力の三男だが、剣術修行で屋敷を飛び出して以来、修行を終えても八丁堀には戻らず、駒形に地天流墨西館と云う剣術道場を開いた。その後道場を押上に移し、地天流墨東館と名を変え看板を十軒店の道場口に掛けた。
兵庫はただただ強かった。竹刀での他流試合を拒むことはしなかった。
ただし、地天流と云う剣術流派は無名に近く、免許を得ても仕官や栄達には役には立たないので、入門する者は限られる。
その限られた者の中で目立つのが、新門辰五郎の若い子分衆で毎日朝稽古にやって来る。
そう成ったのは、今年の三月末近くに、新門辰五郎が押上にやって来て、今年の稽古代として百両を置いていった時に始まる。
そう云うことも在って、新門の若い者への稽古には道場主である兵庫や師範代の根津甚八郎が優先的に当たって居る。
と云うのは、新門以外からは稽古代を取らなくなっていたからだ。払いたいと云う者には入口に置いてある浄財箱に入れるようにと云う事にしていた。
ただ、兵庫が不思議に感じていることが在る。
それは、稽古代に百両もの大金を払った割には長く通い続けて居る者が居ないことだった。
長くても一月ほど通うと来る者が入れ替わってしまうのだ。新門一家に属する者は多いから、その多くの者に剣術を体験させるのが目的なのかと思って居るのだが、確かではない。

 そして今日も新門の若い者が朝稽古に三人でやって来た。
その中に新人が一人いるのを見て、兵庫は稽古を中断し、皆を集めた。いつの日からか、挨拶の場が設けられるようになったのだ。
「孫三郎と申します。宜しくお願いいたします」
「鐘巻です」「山中です」「根津です」「近藤です」と指導者が名乗り短い挨拶は終わった。
 稽古が再開されると、孫三郎はこれまで稽古に来た新門の誰よりも優れていることを、相手をした者たちが認めた。
外から通って来る者の中では朝稽古に最後まで残っていた新門から来た者たちも稽古を止めた。戻ろうと挨拶する新門の者たち、その孫三郎に兵庫が、
「孫三郎さんは、これまでの誰よりも進んでいます。何方に習いましたか」
「私を強くしてくれた方々は、先生方の弟子です」
兵庫が首をかしげると連れの一人が、
「鐘巻先生、孫三郎さんは新門の親戚筋で、何かと手に負えない所が御座いまして、新門に相談が持ち込まれたのです。新門の世話に成ることに成った孫三郎さんに言うことを聞かせるには負かさないと云う事を聞いてくれないのです。たがいに怪我をしないように剣術勝負をしたのですが、剣術も適う者が居ませんでしたので、弱い者の綺麗ごとなど聞く耳を持ってくれませんでした。そこで親分が鐘巻先生にお願いして、手前どもへの手ほどきをお願いしたのです。その甲斐あって孫三郎さんに打ち込めるようになる者が出てきました。その者たちが教えているのです」
と孫三郎の代わりに応えた。

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Posted on 2016/08/31 Wed. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学