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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第94話 斬られ彦四郎(その30)】 

 中川家の者たちが母屋の中に姿を消したところで、兵庫が
「地蔵は何処ですか」とお庭番頭の仁吉に尋ねた。
「表門から十間ほど入った東の木立の間です。ご案内いたします」
曲がりくねってはいるが表門から裏門に抜ける道が在り、その道の道幅が広げられた所に薄汚れた地蔵が据えられていた。
地蔵の脇には新しい柱が建てられ、“延命・子育て地蔵”と記されていた。
他に近寄らないと読めない大きさの字で書かれた立札があった。それには、
“この地蔵は当屋敷の庭より、延命及び子育てと書かれた木片と共に掘り出されたものであり、改めて“延命・“子育て”地蔵として祭るものなり“と書かれていた。
 しかし、地蔵の実態は仲間の辰五郎が作って居た物で何の由緒もないのだが、ここに地蔵を据えたのは、苦境から抜け出すために神頼みしか手段の無い弱い者を探し、支援する狙いが在った。

「仁吉さん、朝五つ(8時)から夕七つ(4時)までの間、表門を開けお参りが出来るようにして下さい。出来れば明日から」
「夕七つまでなら少し間がありますが、皆が揃っていますので今日からでも開けられますが」
「それでしたら、開けて下さい。この屋の主に言っておきます」
「分かりました」

 母屋の玄関で板木を二度叩くと雅代が出てきた。
「奥さん、朝五つから夕七つまで表門を開け、地蔵の御参りを許します。今から開けさせますので、町との交流をして下さい」
「分かりました」

 開けられた表門から兵庫が出て行くと、押上から駒形に向かう子供たちがやって来た。
「兄上、お帰りなさい。彦四郎様が・・・」と心配そうな顔を見せた。
「ああ、また斬られ、軽いけがをしました。お見舞いして帰りなさい」
子供たちは表門から入って行った。
それを門前で履物屋を営む店の親父が見聞(みき)きしていた。
「“斬られ彦四郎”さんが、また斬られたのですか」
「軽傷です。心配しないで下さい。それより朝五つより夕七つまで表門を開けます。地蔵が祭られていますので、そこまでは出入りして結構です。また、中川さんは元南町奉行所の同心ですから、困ったことが生じたら相談して下さい」
「分かりました。町の皆さんに伝えにいってきます」

 兵庫等が押上に戻った後、京橋銀座で起きた事件が留守をしていた主だった者に伝えられ、それを聞かされた者から、彦四郎殿は運の強いお方ですねと反応が在った。
「先生、中川屋敷の地蔵のご利益に、“強運とか招運”を加えたら如何ですか」
と常吉が云った。
「それはよします。一六勝負に運を掛けるやくざ者のお参りが多くなりそうなので」
「違いね~。暫くするとお守りにすると地蔵が削られ糠味噌の重石になってしまいますよ」
笑いが起こり、話が終わった。

 その夜の寝床で、志津が
「旦那様、宮古屋事件で遺体を検分した宮古屋の下働きの者が夜警番の浪人二人が居ないことを証言したのに、その内の一人とは一度も顔を合わせたことが無かったのですよね。会ったことも無いのにどうして二人居たと証言したのでしょうか」
「二人居たことは事実でこれを知って居たのは宮古屋の主など少人数だったのでしょうね。小者が、何となく二人いると感じたのは、何事にも二人分用意させられたからかもしれません。また二人が話す声を聞いたのか・・・」
 兵庫等が眠りに着こうとして居る頃、萬屋弥一は太白に描かせた“斬られ彦四郎”の下絵の修正版を彫師に掘らせ、更に摺師に持ち込んでいた。
「一枚でも多く摺ってくれ」と頼み込み、摺師たちも応えていた。

 嘉永六年九月二日(1853-10-4)が明け、兵庫にとっては平常の日が始まって居た。
しかし、時が経ち朝五つの鐘が鳴ると、中之郷元町の中川屋敷の表門が開けられた。
それを待って居た中之郷の者が屋敷内に入っていき、暫くすると地蔵見物かお参りを済ませ戻って来たが、門外に出ずに屋敷内に留まる者が居た。
その者が手にしていたのが、また斬られた“斬られ彦四郎”浮世絵絵だった。
それは昨晩から徹夜で弥一らが刷り上げたもので、手分けして売りさばいたのだ。
 表の騒々しさがその訳と共に屋内にも伝わった。
訳とは、“斬られ彦四郎”に会いたいという素朴な願いだった。
そして、彦四郎はこれに応じたのだ。
表門が開き、庭内に地蔵が置かれたことで、特に出入りの訳を云う必要は無くなった。
そして、家の主や同居人が顔を見せたことで隔離されていた武家屋敷が町人町に溶け込み始めた。
「仁吉さん」と彦四郎が声を上げた。
飛んできた仁吉に
「裏門も開け、瓦町の皆さんにも入れるようにして下さい」
「通り抜けさせても構いませんね」
「構いません。もし都合の悪いところが在れば、垣根や木戸を作って下さい」

 なかなか門を開けようとしなかった彦四郎だったが、兵庫が表門を開けさせたことで、彦四郎は屋敷の留守居役として初めて裏門も開けるという大きな決断を下した。
大きな決断とは、安全上の問題ではなく、侍屋敷としての威厳を捨てることだった。
昨日、一昨日と刃の下に身を置いた、命を捨てるという経験が彦四郎を成長させていたのだ。
庭に出来た通り道から聞こえてくる話声を聞く中川彦四郎の顔は満たされた様子で、心身共に斬られ彦四郎に生まれ変わっていた。

第九十四話 斬られ彦四郎 完
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Posted on 2017/03/02 Thu. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

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