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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第97話 前へ(その1)】 

 兵庫は南町奉行所与力・鐘巻家の三男として八丁堀で生まれた。唯一の取り得と云えば剣術だった。部屋住みで終わることを良しとしなかった兵庫は、嘉永二年・二十歳の時、噂話で聞いた板橋で雲風流の道場を開く相川倉之助の内弟子となり、実戦的剣術に磨きをかけた。
一年半で修行を終わらせた兵庫は、たまたま手に入れることが出来た駒形の家に妻の・幸と移り、名ばかりの庭道場、地天流・墨西館を開いた。ただ名も知れぬ道場への入門者は少なく、暮らしは修行時代に身に着けた悪党退治で得る余禄に頼らざるを得なかった。
 嘉永四年、妻の幸が幸太郎を産んで死んだ。幸太郎を育てられない兵庫は、同時期に乳飲み子を亡くした兄嫁の玉枝に子を預けた。
失意が続いた。そうした中、数少ない弟子・山中健次郎が伊勢亀山藩に帰参出来るよう修行時代に知り合いとなった南町奉行遠山金四郎に、訳を云い頼み、願いが叶った。
ただ、帰参が叶った山中家だったが、健次郎の姉・志津は江戸に残った。その訳は山中家が亀山藩を追われた原因が志津をめぐる死闘に因るものだったからだ。
その後、志津が押しかけ女房として駒形の家に入った。それから一年ほど経った嘉永五年の冬、札差を拉致し千両の身代金を奪う賊退治を、因縁の多い札差山倉屋より札差百家の総意として代金千両で、朋友の霞塵流三代目・山中碁四郎と引き受け、これを成し遂げた。
ところが千両もの身代金を奪っていた賊の狙いが、困った家の子が口減らしのため売られたり捨てられるのを止めさせるために子供たちを預かり育てる所を造るためだったことを、仕置きされ埋葬された寺の和尚から聞かされたのだ。
 その遺志を継ぐため兵庫は碁四郎と修行時代に知り合った内藤虎之助の三人で、養育所の開設を願い出、駒形に開いたのが嘉永五年の暮れが押し詰まったころだった。
養育所の開設から凡そ九か月がたった嘉永六年九月十日(1853-10-12)の時点で養育所を頼った身寄りのない子供たちは、男の子が十七人、女の子が八人、合わせて二十五人居る。
また、養育所には、他に兵庫を頼った者や、世話をする者たちが居て大所帯なのだ。
その大所帯を養うには大金が要る。
収入の才覚の多くの部分が兵庫に任されていた。
現在養育所が得る現金収入は、押上の十軒店と駒形の薬屋・継志堂の利益だけである。
しかしこれだけでは足りない現実があり、不足分は、今は豊かな貯蓄を取り崩すことで賄っているのだ。
ゆえに、今のまま留まることは出来ない。
それなら、どう動くか。
兵庫が今考えているのは、余裕の在る金持ち家族の肖像画を描き、売ることである。
その見本となる兵庫、志津、大助、お玉の一家四人を思わせる肖像画が今日にも掛け軸に表装され出来上がる予定なのだ。
 兵庫が、その事を思いながら寝床で夜が明けるのを待って居ると、早起きの十軒店が開けられる音が聞こえて来た。
道場が使える日は、その音が明け六つの鐘の音に代わるもので、兵庫が寝床を抜け出した。

 稽古着に着替え、先ず千丸のおしめを洗い、干すのが天気に関わらず兵庫が朝一番で行う仕事になっていた。
それが終わると、防具を着け、草鞋を履き道場に行き、身体の筋を伸ばし激しい稽古に備えた。
しかし、今日の兵庫は稽古励み、旨そうに朝食を食べるのは同じだが、その拘束される時が過ぎて行くのを待って居た。
中之郷元町の彦四郎屋敷に居る絵師の大神田太白と絵の、また、駒形で経師屋為吉と表装代の、双方から価格の成り立ち聞き、利を乗せ方を決めてから客先に出向き、注文を取りたいと思ったからだ。
兵庫や志津が大助やお玉を連れて注文に出向くのは、品物と価格の確かさを早く客に認めさせたいのだ。
兵庫には他にやりたいことが在り客先に出向くのは最初だけにして、あとは太白や為吉に任せたいと思って居た。

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Posted on 2017/04/07 Fri. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学