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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【鐘巻兵庫 第99話 標的(その37)】 

 竜三郎とおときに見送られた兵庫は入谷の街並みを見ながら歩いた。近くの鬼子母神への参詣客目当てか、土産物屋、飯屋が多いが、押上の十軒店から漏れ出す旨そうな匂いは流れ出て来ない。二度と来ない客だと決め込み粗末なものを出す店も少なくないご時世に生き残るには旨いものを食べさせなければならない。そのためには地元の者が集まる店にして貰いたいと思いながら鬼子母神を通り過ぎた。
 入谷と芝の神明町の距離はおよそ二里で、しかも雨降りで傘を差しており急げないので、一刻程の時間を掛け歩いた。
 神明町の家に着くと、いや、着く前から良い匂いが流れて来た。隣の料理屋・磯甚からかと思ったが、そうではないと兵庫は思った。
匂いが十軒店の飯屋から流れ出る蕎麦の汁の匂いと似ていたからだ。
鬼吉が常吉から蕎麦の打ち方から出汁の作り方まで手ほどきを受けていたのを知って居たからだった。
 案の定、家の開いて居る戸口の前に立つと山車の香りが強くなった。
未だ、仕舞屋(しもたや)のままで暖簾などは出ていないが蕎麦屋でもやるのかと家の中へ足を踏み入れた。
「鐘巻です。蕎麦をご馳走に参りました」と大声を部屋暖簾の奥に向かってかけた。
出て来たのは、前掛けをした鬼吉だった。
「先生、良いところに来て頂きました」
「そうですか、喜んで頂きます」
「その前に暖簾代わりに、“蕎麦”と戸口の障子にかなで書いて頂けませんか」
「いいですよ、筆と墨を用意して下さい」
墨をすって居る鬼吉に、兵庫が
「ここに来て間もないのに、よく道具が揃いましたね」
「お由が隣の磯甚に頼んだら、余っている物を祝いに頂きました」
「何の祝いですか」
「それは、私との祝言ですよ」
「そうでしたね。久蔵さんに伝えておきます」
「お願いします。今日は何でしょうか」
「蕎麦屋の看板を出すのなら心配ないでしょう。来たのは、久蔵さんの過去の所業が良からぬ者たちをこの家に招くことが考えられます。もし、来るようなことが在ったら、決して争わないで下さい」
「縄張りがどう成って居るのかは全く知りません。それとそれ以上に守らねばならない者が居ますので争える立場ではありません。もし、先生の方で何か、お考えが在るのでしたら働かせて頂きます」
「養育所としては、養育所の利益だけのために力ずくの争いはしません。ただ町に不安が生じるようでしたら調べますので教えて下さい」
「分かりました」

 墨がすり上がり、兵庫は戸障子に仮名で“そば”と書いた。
「それでは、用が済んだので、失礼します」
「待ってください。一番目の客に成って下さい」
「分かりました」
そして、お由が持って来た蕎麦を板の間に上がらずに土間に足を置き腰掛て手食べて居ると客が覗き込んできた。
「いや~、旨かった。高い出汁を使って居るだけのことは在る。幾らですか」
「二十文です」
「それじゃ、仕事始めご祝儀です」と二十四文渡した。
「これはどうも、有り難うございます」
「また来ます。味を落とさない様にしてください」
「有り難うございます」

 蕎麦屋となった仕舞屋を出た兵庫は暫く歩くと傘を閉じた。
雨は乾いた大地に水たまりを作る前に、お湿りを与えたところで小止みに成っていた。
 駒形に戻った兵庫は、内藤に入谷の竜三郎とおときのこと、神明町の鬼吉とお由のことを話し、借りた傘を返し駒形を出た。
 途中、中之郷元町の養育所に寄り、留守居役の中川彦四郎に内藤に話したことと同じことを告げた。
彦四郎からは、父の矢五郎が弥一と浅草に出かけていることを教えてくれた。
 最後に寄ったのは向島の圓通寺で、久蔵にはお由と鬼吉のことを、繁蔵には竜三郎とおときが始めようとしていることを話して聞かせて、押上に戻ってきた。
そこからは午後の稽古の音が耳に届いて来て、兵庫の足を速めさせた。

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Posted on 2017/08/04 Fri. 04:01 [edit]

thread: 花の御江戸のこぼれ話

janre 小説・文学