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洗心湯屋

日本一長い、時代小説を目指しています。

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【湯上り侍無頼控え 一話 相討ち勝負(その16)】 

 嘉永五年三月二十二日(1852-5-10曇り)、目覚めた碁四郎が何時ものように股引き腹掛けに半纏を羽織り、朝駆け鍛錬のため富士の湯の裏木戸から飛び出した。
両国橋の向こうの空には夜明けの赤味を隠す曇が広がっていた。
その空は碁四郎に数日前の橋の上の事件を思い出させたが、何も起こらず朝駆けを終え、戻ると鍛錬棒を振り終え朝風呂に浸かった。
 碁四郎が富士の湯の二階でくつろいでいると、何人かの朝湯好きな客が来ているのだろう、桶が風呂場の床に置かれる音が響き聞こえ始めた。
暫らくして、下からおよしが声をかけてきた。
「若旦那、ご飯の支度ができていますよ」
今までは居候扱いの碁四郎の朝飯は主人である仙吉等家族が食べた後だったのだが、両国橋の事件に碁四郎が関わっていることが分かり、三助と碁しか出来ない侍から、侍の仕事も出来る侍として、主人より早く朝飯が食えるようになっていた。
そうは言っても、主人より旨い物が食えるわけではなく、客の少ないうちに早く食ってもらわないと後片付けが出来ない事情の方が真の訳かもしれない。
 朝飯を済ませた碁四郎が女湯の奥にある裏戸口を開け洗い場に入り、高座(番台)の方を見ると、座って居るおよしと話す女の姿が目に入った。
その姿を見て、さすがに碁四郎も目を疑った。
姿の主は深川に居るはずの加代で、それも風呂に入る道具まで持ってきていた。
加代も脱衣所まで来た碁四郎に気づき高座のおよしに湯銭の八文渡しながら軽く頭を下げた。
目があった以上無視も出来ずに碁四郎は下駄棚に下駄を乗せている加代に歩み寄った。
「加代殿は深川からここまで湯に入りに来られたのですか」
「ご挨拶が遅れて申し訳御座いませんでした。昨日午後、平右衛門町の裏店(うらだな)に引っ越して参りました」
碁四郎は加代がこれほど早く動き出すとは考えても居なかったため、二の句が告げなくなった。
「何故、引っ越してきたか聞きたいのでしょう?」
「はい、まあ・・・」
「それでしたら、後ほどお話します」
「分かりました。二階で待っています」
そうこうしている内に、朝風呂常連のお静、お駒、お吉が碁四郎の居る二階に上がってきた。
そして何時もとは違う碁四郎の様子に気が付いた。
「何? その格好。これから三助やる人とは思えませんが」
袴を穿き、脇差を腰に差し、いつでも出かける支度が出来ているのだ。
「皆さん。今日、三助は勘弁して下さい」
「何処かへ出かけるのですか」
「それは分かりませんが、実は先日ここに様子見に来たお加代殿が今風呂に入っているのです。暫らくしたら平右衛門町に引っ越してきた訳を聞かせてくれます。皆さん、あの件は内緒ですからね」
あの件とは碁四郎が心ならずも加代の父、麻生寛治を斬って話である。
「それは分かっていますよ。でも気が付いて引っ越してきたのかしら」
「それは分かりません。皆さんは、風呂に入りお互いに三助やっていて下さい」
「いいえ、此処に居ます」
加代がやって来た訳を聞きたいのは誰しも同じ、女の大きな尻が碁四郎の部屋に三つ並んで腰を下ろしてしまった。
待つこと暫し、階段を上がってくる足音がした

Posted on 2011/03/14 Mon. 08:37 [edit]

thread: 幕末物語

janre 小説・文学

【湯上り侍無頼控え 一話 相討ち勝負(その15)】 

「山中殿、過日は一方(ひとかた)ならぬお心遣いを頂き、お礼の言葉もありませんが、用意した物が御座いますのでお受け取り下さい」
「いや、その儀には及びません」
「それでは、あの世に行った父に叱られますのでお聞き入れ下さい」
「・・・・・」
「当家は津軽家の定府馬廻り役として二百石頂いております。父は剣の修業をし、藩内では一角(ひとかど)の使い手として知られて居りましたが、実は四十肩を病み、手が上がらなくなっておりました。賊の胸を貫くような突きはもはや望めなかったのです。使いに来た棒手振りの話を聞き、また事件を穏便に治めて頂いた町奉行所の坂牧殿の話しなどを聞き、山中様のお働きで相討ちとなり、父そして当家の面目が保てたことが分かりました。目付け殿には父が武士として見事に身罷ったことをお上に言上して頂き、何等のお咎めも受けずに済みました。これ一重に山中殿のお助けがあってのこと。その山中殿が浪々でご苦労されていることを知り、当家が受けた御恩の万分の一でもお返し致さねばと思い、お呼び致した次第です」
「お咎めが無かったことを聞きほっとしました。それと私は、今の暮らしが気に入っていますので、苦労とは思って居ません。お気持ちだけ頂いておきます」
「そう申されずに、こちらの気持ちを用意しましたのでお持ち帰り下さい。多恵・・」
仙太郎の言葉を待って、娘の多恵が立ち別室から脇差と袱紗に包まれた物を三方に乗せ持って来た。
暗い部屋の中で地味な物を着ていた多恵だったが、その美しさは隠すことも出来ず、碁四郎は多恵が三方を置き、引き下がっていく姿を追っていた。
「山中殿。脇差は亡き父愛用の物で奥州津軽住国広一尺五寸五分です。あとは気持ちですのでお納め下さい」
「分かりました。有り難く頂戴いたします」
これ以上辞するのもと思い、碁四郎は受け取り、その言葉に仙太郎以下皆の顔に笑みが浮かんだ。

 富士の湯の住まいに戻る途中、碁四郎が懐の袱紗の中を指で数えると十両が包まれていることが分かった。
十両の内五両は借りた者へ返すのだが、それでは手元に五両が残ってしまう。
結局は、殺された藩士の子が殺した浪人の子、加代に五両を与え、藩士を殺した浪人を殺した碁四郎にも五両を与えた形になってしまっていた。
これは、何なのだろう。
一番深い悲しみに落とされた藩士の家族がその悲しみの底から、抜け落ちずに何とか這い上がる希望が見え、それを見させた碁四郎の手に心ならずも十両の金が乗ってしまった。
人は今の幸せを感じることに鈍感だが、一度奈落に落ち掛けることで、今の幸せを改めて感じるのだと思った。
そして底に近い者ほど喜びを与えられる機会も多いのかもしれないと思った。

碁四郎は帰り道、置屋の都鳥に行き、居合わせたお静等に借りた四両を返し、茅町の人身番に居た岡っ引きの勇三に久坂が来たら返すようにと借りた一両を渡し、湯屋の二階に戻った。
がさつな碁四郎の立てる物音が聞こえたのか
「先生。居るの分かってますよ。先ほどの続きお願いします」
隣の部屋から、爺さんの声が聞こえてきた。
「待って下さい。着替えて行きます」
着流しになった碁四郎が、隣の部屋に出て行くと、なんとそこには定廻り同心の久坂が笑って待っていた。
「確かに貸したものは返した貰った。ちょっと話がある。手間はとらせねぇ」
久坂が外を見下ろせる湯屋の二階の窓際に碁四郎を導いた。
「あんたどうやら旗本の倅のようだな」
「分かりましたか」
「わしが調べたんじゃねぇ。お奉行だ」
「どっちの?」
「南の遠山様だよ」
「私はお奉行に調べられるような悪いことはしていませんよ」
「何言ってるんだ。御主、人一人あの世に送っているんだぜ」
「しかし、あれは相討ちでお願いしたはずです」
「ああ、表の調書はそのようになっているが、そうするにしても上にお伺いを立ててのことだ」

当時、事件の真相が捻じ曲げられることは幾等でもあった。大きい事件では碁四郎が人を斬った事件から8年後の3月3日に起きた桜田門外の変でしょうか。
人前で首を落とされた井伊直弼はその後も生き続け、跡取りを決めた後の3月28日に病死したのが直弼に関する公式記録のようです。

「それで、私は何かお咎めを受けるのですか」
「いや、どうやら御奉行殿が御主に興味を持ったようで会いたがっていたそうだ。与力の鐘巻様に言わせると若いときのお奉行の放蕩を思い出させたのではないかということだ」
「そうですか、でも私は奉行所まで出行く気はありません」
「そうだろうが、わしの立場も考えてくれ。子どもの使いじゃねえ、“会いたくありません”と言われたとは言えねぇんだ」
「分かりました。それでは何時でも行くと言っておいて下さい」
「それで帰れる。好きなだけ爺さんと碁を打ってくれ」
久坂はそう言い残すと、帰って行った。
碁四郎は奉行に弱みを握られた思いを感じたが、それをご破算にする手立ては思いつかなかった。

Posted on 2011/03/13 Sun. 15:05 [edit]

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janre 小説・文学

【湯上り侍無頼控え 一話 相討ち勝負(その14)】 

 嘉永五年三月二十一日(1852-5-9晴れ)の午後、暑い日射しが夏を思わせていた。
碁四郎が富士の湯の二階で何時ものように碁を打っていると、主の仙吉が来て、耳打ちした。
碁四郎はその話を聞き
「分かりました。直ぐに参るとお伝え下さい」
仙吉に碁の邪魔をされた爺さんが
「先生。もう終わっちゃうのですか」
「済みません。客が来ました。この碁は打ちかけにし、戻りましたら続きをお願いします」
「先生。どんな別嬪が来たのかね。私も様子を見にもう一度、風呂に入るか」
「いや、男ですよ」
「それじゃ、つまらねぇから、ここで暇を潰しています」
暇な爺さんとの碁を止めた碁四郎は、一旦部屋に戻ると脇差を差し、大刀を持ち一階に下り、富士の湯の表に出た。
外には若い武家とその供が待っていた。
「山中碁四郎です」
「拙者、先日お世話頂きました今の次男、孫次郎と申します。屋敷まで御足労願いたいのですが・・・」
津軽藩の者には身分を明かすことをせずに立ち去った碁四郎のもとに、何故か両国橋で斬られた今仙左衛門の倅がやってきたのだ。
碁四郎がどうしたものか躊躇っていると、
「ご懸念には及びません。父のことで御礼申し上げたく参りました」
相手は事の次第を全て知っているように碁四郎には思われた。
「分かりました。身繕いを改めますので暫らくお待ち下さい」
頷く今孫次郎を後にして、再び富士の湯の二階に戻った碁四郎は、洗っては在るがだいぶ疲れた袴・羽織姿に身を改め、滅多に履くことも無い雪駄を出し表に出た。
 前を歩く二人に従いついて行くと二人は事件のあった両国橋の中程、今仙左衛門が倒れていた辺りで立ち止まり頭を下げていた。
流れた血はその後の雨で洗われ痕跡を留めて居なかった。
 束の間、歩みを止めたが、前を行く二人は橋を渡りきり回向院まで行くと、北へ曲がり、直ぐに東へ曲がり津軽屋敷へと歩いていた。
途中、亀沢町では直心影流団野道場から聞こえてくる竹刀の音と気合が碁四郎の目を向けさせただけで、津軽藩上屋敷の表門まで来た。
前を歩く二人は上屋敷には入る様子を見せず、歩き続けていた。
中屋敷は同じ道沿いを更に二町ほど東あるのだが、その表門からも入らず裏に回り、先を歩く今孫次郎が門を叩いた。
忌中の藩士の出入りは裏門と決められているのだなと碁四郎は思った。
「今で御座います」
脇門が少し開き、門番が今を確かめると大きく開かれた。
「山中殿。どうぞお入り下さい」
促がされるままに、門を潜った碁四郎はそれからさらに御貸し小屋が並ぶ道を歩き、忌中の掲げられた御貸し小屋の中に入った。
「お上がり下さい」
孫次郎に案内されたのは広くはない小屋の奥の仏間であった。
「兄上、山中様にお越しいただきました」
孫次郎の言葉で仏壇の前に座っていた兄と呼ばれた男とその母と娘であろうか三人が碁四郎に頭を下げた。
碁四郎が慌てて入り口近くに座ると
「お呼びいたし申し訳ございませんでした。私は亡き重信の嫡男仙太郎、ここに控えますのは母の松、妹の多恵でございます」
「山中碁四郎でございます。此度は不慮の災難に見舞われ皆様方お心落しと存じます。いかに悔やみを申せばよいのか、言葉が出もうしません」
「ご丁寧に有難う御座います。どうぞ、先ず線香を上げて下さい」
碁四郎は仏壇に膝行すると白木の位牌に線香を上げ、手を合わせ般若心経を唱え始めた。
三年の寺修業で鍛えられた喉から出る声が部屋中に響くと、暫らくして部屋に居る者が碁四郎の唱える後に着き経を唱え仏間の空気を震わせた。
経が終わり、碁四郎は振り返り居並ぶ者に頭を下げた。

Posted on 2011/03/13 Sun. 10:45 [edit]

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janre 小説・文学

【湯上り侍無頼控え 一話 相討ち勝負(その13)】 

 嘉永五年三月二十日(1852-5-8晴れ)四つ(午前10時)少し前、碁四郎が女湯で静の背中を流していると、富士の湯の表に振袖姿の武家娘が小さな風呂敷包みを持って一人でやってきた。
高座(番台)に座っていた主の仙吉に
「私、麻生加代と申しますが、こちらに山中様がお住まいと伺い参りました。お取次ぎ願えましょうか」
「山中?・・山中?・・・・」
この湯屋で碁四郎の姓が呼ばれることは無いので仙吉は一瞬、キョトンとし首をかしげた。
「山中碁四郎様ですが」
「あ~~・・・。若旦那は今、仕事していますが部屋で待ちますか?」
「宜しければ、そうさせて下さい」
「それじゃ上がって、脱衣所の奥に階段が在りますから二階で待っていて下さい。その良い履物は私が預かります」
風呂屋の様子については加代も知っているので、履いてきた下駄を仙吉に預けると、二階に上がっていった。
しかし、階段を上がりきり部屋に入ると女物の着物が入った籠があり、奥には昨日見た碁四郎の袷が衣桁に掛けられていた。
加代は部屋に上がってきたことを後悔したが、下りて帰るわけにもいかない。
加代は上がってくる者と目が合わないように階段に背を向け壁に向かって座り碁四郎が上がってくるのを待つことにした。

 一方、静の背中を流し終えた碁四郎が脱衣所まで出てくると、高座の仙吉が
「旦那、若い娘さん、二階に来てますよ」
「何方ですか」
「・・え~と、確か・・・麻生とか言ってました」
「参ったな~。仙吉さん、この姿では上に行けません。着ている物を貸して下さい」 
「嫌ですよ。こんな所で帯を解いたら、かか~に叱られ、ここに上がれなくなってしまいます。私は養子なんですよ」
碁四郎と仙吉が貸してくれ、貸せないとやり合っていると、身体を拭き終え湯文字一つで静が階段を上がっていった。
「旦那、お静さんが・・・」
「あ~~」
碁四郎が二階に上がりそびれ、様子を見ていると、暫らくして階段付近に碁四郎の着物が投げ落とされた。
 その着物を着て済ました顔で上がっていくと、着替えを終えたお静が加代と話をしていて、碁四郎を見て笑った。
「お待たせして済みませんでした」
「とんでもないです。今日来ました用事がもう済んだ気がしています。これ、つまらない物ですが佃島の物です、皆様でお食べ下さい」
「それは、どうもご丁寧に」
「碁四郎さん。挨拶する時ぐらい座られたら如何ですか」
「姐さん。どうも、寝小便をした感じで、座りたくないのです。乾いた物に代える間、後ろを向いていて頂けませんか」
これにはお静も加代も顔を見合わせ、笑いを堪え後ろを向いた。
 下帯を乾いたもの代えた碁四郎が声をかけた。
「加代殿、失礼致しました」
二人は振り向くと、そこには脇差を差し侍姿になった、湯上りを思わせる碁四郎が笑っていた。
その時隣の遊興部屋から碁四郎を呼ぶ声が聞こえてきた。
「先生。まだですか」
「今、行きます」
「加代様の御用を聞かないで行くのですか」
立ち上がろうとする碁四郎をお静がまた咎めた。
「静様、良いのですよ。碁四郎様がここに居ることさえ分かれば・・・」
加代の含みを残す言葉が気にはなったが、碁四郎が立ち上がり、部屋の隅の仕切り戸の閂を抜き隣部屋へと姿を消した。
「折角、良い男になったら、男にさらわれちゃいましたね」
「お隣で何をなされるのですか」
「囲碁ですよ。まだここでは負けたことが無いそうですよ」
 その日、加代は碁四郎が富士の湯に居ることだけを確かめ帰って行き、それ以外特に変わったことは起こらなかった。

Posted on 2011/03/13 Sun. 05:40 [edit]

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【湯上り侍無頼控え 一話 相討ち勝負(その12)】 

 深川大島町までは凡そ一里、多少苦労したが、大島町に着くと徳兵衛店(だな)は直ぐに見付かった。
木戸から入り少し行くと、井戸端で菅笠に蓑を羽織り、濡れながら昼飯の支度をしていたかみさん達が喋るのを止め、見たことも無い碁四郎を見上げた。
「お尋ねしたいのですが、麻生殿の御宅はどちらで御座いましょうか」
「先生の家なら、あの、“お仕立物致します”の札が下がっている家ですよ」
碁四郎はかみさんの指差す先を見、
「有難う御座いました」と一礼し、その家に向かった。
麻生の家の前に立った碁四郎は外から
「山中碁四郎と申します。麻生殿の御用で参りました」
中で微かな音がし、土間に下りたのか下駄の音がし戸が開けられた。
そこにはお駒やお吉が言っていた様な麻生の妻ではなく、美しい娘が番傘を差す碁四郎を見上げ立っていた。
「父の用で参られたのですか。どうぞお入り下さい」
九尺二間の家で、土間に続く四畳半ほどの部屋には夜具を隠すように衝立があるのと、行灯と碁盤が隅に置かれ、文机の上に何とも似つかわしくない貧乏徳利が載っていた。
先に部屋に上がった娘の後ろには先ほどまでしていたのであろうか、裁縫道具と仕掛かりの縫い物がある程度で整然としていた。
「ご覧のとおりで、何もお出しできませんがお上がり下さい」
碁四郎は言われるままに足駄を脱ぎ上がると正座し、娘と向かい合った。
「山中碁四郎と申します。麻生殿の御息女でしょうか」
「はい、娘の加代で御座います」
「お二人でお過ごしでしたか」
「はい、母の顔は残念ながら覚えて居ません」
「そうでしたか。実はお父上に頼まれ、お届けに参りました」
「父は如何いしたのでしょうか」
「実は急用の仕事を頂いたと言われ、脇差と金子(きんす)を私に託し旅立ちました」
碁四郎は持参した麻生の脇差と紙に包んだ五両を差し出した。
「確かに、父の脇差ですが・・・山中様は父とはどのような間柄なのでしょうか」
「ふとしたことで知り合い、剣術を教えていただいたことが御座いました」
「そうでしたか。麻生の家は薩摩藩の定府として仕えていたそうで、父の剣は示現流と聞いていました」
「はい、まともには受けきれないものでした。それでは、用が済みましたので失礼致します」
「お待ち下さいませ。父はどちらへ旅立ったのでしょうか」
「確かなことは言われませんでしたが、西の方へ参ると言われておりました」
「西の方ですか。・・・ところで山中様はどちらにお住まいでしょうか」
「それは・・・」
「父からは素性の確かでないお方からは、物を頂くなと教えられております。折角ですから脇差は受け取りますが、これはお返し致します」
加代は目の前の紙に包まれた金子を碁四郎の前に押し戻した。
「これは失礼致しました。言いづらいのですが私は浅草御門近くの平右衛門町にあります富士の湯に居候しております」
「ああ、それで差していた傘が富士の湯の五番傘なのですね」
「はい、碁が好きなので五番傘はわたしの専用になっています」
「私もお金のかかる習い事が出来ませんでしたので、父より碁の手ほどきを受けました」
碁四郎は加代が金も受け取る様子を見せたので、女一人の家に長居は無用と
「それでは、お届けいたしましたので失礼致します」
「確かに受け取りました。本日はわざわざお越し頂き有難う御座いました。近々お礼に伺いますので・・・」
 碁四郎は次の手を持って帰るつもりで居たのだが、加代に住まいを知らせたことで次の手を握られた思いを感じながら帰途に着いた。

Posted on 2011/03/12 Sat. 14:26 [edit]

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